苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:Want-to

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


本日は、2015年最後の日です!

2015年はいかがだったでしょうか?

大晦日になると、本年度の振り返りと、来年への大きな期待に胸を膨らませていることだと思います。


私の場合、2015年を総括すると、改めて色々頑張ってきたな思います。

実はいま、実家の兵庫にいますが、訳あって本日これから東京に戻ります。

26日に一端仕事は収めましたが、来年に向けての仕込みです!

2015年最後の日も、自分らしく前のめりにいきます!


現在年越ししながら、並行して才能不要起業プログラムの公開を行っていますが、さらに別のことに来年はチャレンジする予定です!

才能不要起業って何?という方はこちらから▼ 


こちらもまた、お知らせできるようになったら、ご紹介しますね!


2016年も2015年以上に、輝かしい1年にしていきましょう!


それでは、良いお年を!


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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


本日より、水面下でずっと準備してきた企画をスタートさせます。

その名も、『才能不要起業』です!


才能不要起業の詳細はこちらから


 さて、才能不要起業とは、言葉の通り、特別や才能やスキル、強みといった従来の起業の価値観と真逆の起業方法です。


その核心は、特別な才能やスキルを追い求めれば求めるほど、起業から遠のき、むしろ特別な強みがないほどうまくいくというものです!

世間では、何かと特別な才能や強みがなければ、起業はできないという認識が存在します。


そういった世間の誤りを打開し、そしてもっと起業を通じて自己実現の夢を叶えていく、、、

そんなゴールをイメージしてこのプロジェクトを始めます!


これから起業をしたいというひとは、必見の内容です!


才能不要起業の詳細はこちらから


才能不要起業を通じて、ぜひ、あなたの自己実現を叶えましょう!

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『人はなぜ、宗教にハマるのか?』

本書は、ひとと宗教の歴史との関わりを明らかにし、これからのひとと宗教の未来のあり方に鋭く切り込んだ著書である。


宗教とは一体何かという問いは、一見初歩的な内容であるにも関わらず、その問いに答えることは極めて難しい。

なぜなら、宗教には必ず神という存在を前提としているからである。

神という我々の眼に観えない、存在の有無に様々な議論を呼ぶ概念が中心に来る以上、そこから要請されるシステムに当然差分が生まる。

もちろん、個別の宗教という意味では、それぞれに神が存在し、その神から演繹的にとても緻密な論理が積み上げられている。
そのため、神の存在そのものが証明されているという点を除けば、その宗教体系自体はとても整合的に完成されている。

いうまでもなく、歴史的に長い時間をかけて生き残ってきた宗教ほど、この傾向は顕著である。


しかし、宗教がいかに完成されたものであったとしても、その存在によって、様々な問題が起きていることも事実である。

例えば、自爆テロ、十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、インド・パキスタン分離独立、イスラエル・パレスチナ戦争などがこれにあたる。

宗教の本来の目的は、一重に人々の幸福追及であるが、その背景にはその宗教の信仰を持つ人という大前提があり、信仰を持たないものは人間ではないという摩訶不思議な論理が跳梁跋扈する。


これは、宗教という存在が物理空間における支配・制約を受けず、情報空間における整合的な広がりのみを重点を置いているからだと考えられる。

それ自体が、如何に整合的なのもであろうとも、それが本来の目的を達成するものであるかという俯瞰した視点は常に必要である。

もちろん、釈迦やイエスの頃はおそらく本気で我々の幸福を願っていたと思われ、そして現在も本質的にはそうであると思われる。
しかし、残念ながら時代とともにひとも宗教も様々な影響を受け、変化を迫られる。

他にもリーダーが変わるとき、組織の在り方に必ず変化が生まれることは、現代の会社組織とも比較しても何ら変わらない。
宗教の場合、分派という言葉で現される。

以上をまとめて、宗教をこの場では、『人間や自然の力を超えた存在を中心に置き、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団』と定義する。

なお、本レビューの立場を明確にすると、神も宗教も否定するものではない。

あくまで神と宗教を自分の都合よく解釈し、運用する側への問題提起である。 


さて、宗教とは何かを考えるにあたって、神とは一体何かという問いは欠かすことはできない。

釈迦が創始した頃の仏教を除くと、ほぼ例外なく宗教には必ず神という公理を前提に置いているからだ。

公理を置き、そこから演繹的に結論を導くというスタイルは、数学でも採用されているものであり、それ自体は特に問題ない。

しかし、公理という概念には、証明せずともそれだけで充分確からしいという前提がついている。

数学の場合、2つの点をつなぐ直線は1本しか存在しないというものだ。

そのため、神の存在がそもそも証明せずとも充分確からしいかというところから始める必要があるが、神の存在が確からしいかという問いは彼らにとっては確からしいものの、我々にとっては疑問である。

そのため、まず初めに宗教について考えるにあたって、神とは一体何なのかという問いから考えたい。


神とは、広辞苑によると『人知を超えた絶対的存在』と定義される。

そのための神の存在とは、古くはトマス・アクィナスの証明のような神の存在証明がある。


リチャード・ドーキンス著 神は妄想である p.117

(引用開始)

神の存在を支持する論証は、何世紀にもわたって神学者たちによって体系化され、誤った「常識」の普及を含めた他の人々によって補完されてきた。

一三世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものである――ただし、彼の高名を考えると、そういったことにためらいを感じはするが――ことがたやすく曝露される。

最初の三つは同じことを異なった言い方で述べているだけなので、いっしょに考察することができる。

これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている――ひとつの問いに対する答えが、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづく、というものだ。

(引用終了)


トマス・アクィナスとは、中世ヨーロッパの神学者であり、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した、神学の集大成と呼ばれる「神学大全」を著した人物である。


彼が主張した五つの神の存在証明は以下である。

1、不動の動者
どんなものも、それに先立って動かすものがいなければ動かない。
これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものが神である。
何かが最初の動きをつくらねばならず、その何か(第一動者)を私たちは神と呼ぶものである。

2、原因なき原因
どんなものも、それ自体によって引き起されることはない。
あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。
これは最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶものである。

3、宇宙論的論証
いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずに違いない。
しかし、物理的な事物が現にいま存在するするのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずに違いなく、それを私たちは神と呼ぶのである。

4、度合いからの論証
私たちは世界の事物に違いがあることに気付いている。
たとえば、善、あるいわ完全さについてはさまざまな度合いがある。
しかし私たちはそうした度合いを最大限のもととの比較によってのみ判断する。
人間は善くも悪くもどちらかでありうるから、最大の善は私たちうちにあるはずがない。
したがって、完全さの基準を定める何らかの最大者がほかに存在しなければならず、その最大者を私たちは神と呼ぶものである。

5、神学的な論証(目的論的論証)
世界の事物、ことに生物は、目的をもって設計されたかのように見える。
私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたように見えるものはない。
したがって設計者が存在したに違いない。
私たちはその設計者を神と呼ぶものである。


これらの論証は全て、今の我々には理解できない現象を、全て神という言葉で一括りにしたにすぎないものである。

また、その裏側には、自分たちは不完全であるが、必ず完全なるものがどこかに存在するという願いにも似た感情が見え隠れする。


しかし、すでに周知なように、完全なるもの、すなわちアプリオリが存在しないことは、すでにゲーデル・チャイティンによって証明されている。

もちろんハイゼンベルグの不確定性原理も同様の見解をもたらすものである。

少し余談になるが、完全性がないということを理解するために、チャイティンが行った不完全性定理の証明風景を簡単に共有する。

彼はLispと呼ばれるコンピュータ言語を用いて、数学全般に不完全性が存在することを証明した。

このとき完全性とは何かを考えると、それはある公理から演繹的に全ての定理が表現可能でということである。

これを逆向きにいえば、定理から帰納的に公理を導くことが可能である。

つまり、全ての対象は何らかの公理がもたらす規則性による拡張によって成り立っていれば、それを逆向きに圧縮すると当然もともとの公理が導けるはずである。

そして、実際にLisp上でプログラムされたコードを走らせたところ、どこまでいっても圧縮できない要素が見つかった。

これがランダム性であり、完全なものが存在しないことの証明である。


話題を戻すが、ではここで世界の本当の姿とは、何かという問いが残る。

なぜなら、アクィナスの神の存在証明からも理解できるように、我々にとって預かり知らないことや説明できないものは、全て神が決定してくれたからである。

つまり、これは神という不動点によって、世界の全てを秩序立てていたということである。

しかし、その不動点がなかったということになれば、今の秩序は一気に崩壊する。
なぜなら、神が存在しない世界とは、世界を確定させる基準点がないがないということを示すものであるからである。

その世界をひとことで言い換えれば、カオスであり、ランダムである。

すなわち、少なくとも我々が期待するような意味は、世界のどこにもないということである。


我々の世界が見い出しいた意味は、全てゲシュタルト能力によるものである。

ゲシュタルトとは、全体と部分の双方向性を持つひとつの意味を持つまとまりのことであり、その各要素自体に特別な意味はない。

我々が観ている、あるいは共有する情報の全ては、このゲシュタルトであり、それは全て何らかの意味を持った対象である。

それがいくつも無限に並んだならば、まるで世界に何かしらの意味や、完全なるものが存在するという錯覚が起こっても不思議ではない。

そして自我そのものもゲシュタルトであり、これは機能として我々の脳はゲシュタルト化を常に行っている。
そのため、ゲシュタルト化自体が悪ということでは一切ない。


何もないところから、どのみち意味を創り出すなら、自分にとって幸福なもの、自分が心の底からほしいと願うものを創ることがいいというのは、当然の帰着である。

これはコーチングにおける、現状の外側へのゴール設定だ。

現状の外側とは、我々が認識する世界(ステータス・クオ)の中からは決して見えない世界のことである。


世界に何の意味がないのなら、創れば良いとの指摘は、至極真っ当なものであるものの、その作業自体は非常に手間と労力のかかるものである。

そして我々は、そのコストを大いに惜しむ。

そこに宗教が長い年月をかけて構築した整合的な高い知性は、とても魅力的に感じられるだろう。

しかし、その論理をそのまま受けれいれることは、ただの思考停止に他ならない。

そういう意味で、宗教とはまさに我々の心が生み出した人類史上最大の妄想である。


幸福とは、自分で見つけ、自分で創り出すものである。

それは他者から与えられるものではない。

コーチングの元祖である故ルー・タイスは、『私が幸せであるのは、私が幸せであることを選んだからだ』という言葉を残している。

我々は他人に与えられるまでもなく、最初から幸福を自分で選び、掴み取れる存在である。


本書をぜひ手に取り、自分が幸福となることを選んでほしい。



















『脳と心の洗い方』

本書は、脳が生得的に持つ特性を用いて自己実現を目指す方法(プライミング)を紹介した著書である。

このときキーワードとなるのが、ドーパミンである。

ドーパミンとは渇望ホルモンのことで、この脳内物質の特性を利用して自己洗脳する技術がプライミングである。

ドーパミンはよく快楽ホルモンという理解が世間ではなされているが、厳密には正しくない。
正確には、ドーパミン分泌後にセロトニンが分泌され、これが我々が感じる幸福感や、やすらぎといった感覚をもたらしている。

ドーパミンがアクセルならセロトニンはブレーキの役割を持つため、ドーパミンが分泌されると、結果的にセロトニンが分泌する。
厳密ではないものの、最終的には幸福感を感じるため全てが全て間違っているわけではない。

プライミングを用いた詳しい自己洗脳の方法論は本書に譲るが、プライミングを利用するにあたって、重要となるのがドーパミンに対する理解である。


さて、ドーパミンについて改めて紹介すると、中枢神経系に存在する神経伝達物質であり、運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わっている。

実際まだドーパミンそのものは未解明な部分が多いことを付け加える。


ドーパミンの発見は、1953年にカナダのマギル大学のジェイムズ・オールズとピーター・ミルナーという2人の研究者が行ったラットの実験にさかのぼる。

彼らはラットの脳に電極を埋めこむ手術をして、傷が治ってから、電極を通じて脳に電気刺激を与える実験のなかで、たまたま見つかったものである。


この実験では、脳の特定の部位に電気刺激を与えることで、最初ラットがその場所に固執しているかのように見えたことに興味を持ち、この特性をさらに調べるために行われた。

実験内容は、容器にレバーをつけ、そのレバーを押すとラットの脳内の電極に電流が流れるよう工夫し、その固執の強度を調べるというものである。

その結果は驚くべきもので、ラットは空腹状態でも食べ物に一切眼もくれず、また発情期のラットが横にいても、それを無視してレバーを押し続けるというものだった。

ひどい個体の場合、24時間にわたって1時間あたり2000回もレバーを押し続けた。


ラットはレバーを押すことで、脳内の電気刺激を通じてドーパミンが分泌され、そしてその結果レバーを押すことだけに強い快感を感じ、それ以外に一切興味を示さなくなったのである。

この実験結果からも理解できるように、レバーを押すという行為に対して、中毒症状になった表現する方が言葉としては適切である。
またその中毒症状は、食欲や性欲といった、生物の中で最も根底にある欲求でさえも勝るものであることを押さえたい。

この結果は達磨大師を連想させる。

達磨大師とは、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。

彼は禅を組み、瞑想していたところ、気づいたら自分の足が腐っていたという逸話を残している。

これは瞑想を通じて、脳内で大量のドーパミンとセロトニンが分泌され、本人はあまりにも気持ちが良く、現実世界の不調に気付かなかったためと思われる。


ここで、プライミングがなぜこれほどまでに強力であるのか考えたい。

プライミングがなぜ強力なのかいうと、それは生物の基本的な行動原理がドーパミンと密接に絡み合っているからであると考えられる。

このときのキーワードは『報酬系』である。

報酬系とは、欲求が満たされたとき、あるいは満たされることが分かったときに活性化し、その個体に快の感覚を与える神経系のことである。
厳密にいえば、報酬系は主にA10と呼ばれる中脳の腹側被蓋野から大脳皮質に投射する神経系である。

ここにドーパミンが通ることが確認されている。

そしてこのときの報酬とは、性欲や食欲を満たすことで得られる生物的報酬と、他人から賞賛されたり、承認されることで獲得てきる社会的報酬に大別されるが、端的に言い換えれば、自分の行動によって自分が最終的に気持ちよくなるかが争点である。


自分の行動に快の感情をいだくかどうかが、自分にとっての行動原理であるとの主張は、簡単には納得しがたいものである。

しかし、これを裏付ける面白い事実が、リストカットを初めとする自傷行為である。

自傷行為とは、自身を傷つける心の病であると一般的に認識されている。
自傷行為自体に幸福感など微塵も得られないように感じられるが、実際はリストカット後の脳内をfMRIでのぞいてみると、きちんとセロトニンが分泌されている。

つまり、リストカットを最初はじめてしまった原因を抜きにして考えると、これを何度も繰り返してしまうのは、本人の自覚の有無にかかわらず、当人にとって気持ちいいために繰り返しているということである。


この事実は我々にとって馴染み深いランナーズハイとも符号する。

ランナーズハイとは、マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚してくる作用のことである。

ランナーズハイが起こったとき、脳内ではβ-エンドルフィンが大量に分泌される。

エンドルフィンはエンド(体内で生じるものの意)とルフィン(モルヒネのルヒネの部分)との合成語であり、鎮痛作用をもつ物質である。

余談だが、エンドルフィンはモルヒネよりも約6.5倍もの強力な鎮痛作用を持つ。

そしてエンドルフィンが分泌された後は、もちろんセロトニンが分泌される。

そのため、長時間走ることは、紫外線で肌がやられ、足裏の圧力で血液が多量に壊される行為であっても、最後の多幸感が忘れられず、再び走りたいという欲求が訪れるのである。

先のリストカットの例も、自傷行為において苦痛を緩和させるためにβ-エンドルフィンが脳内で分泌され、結果的にセロトニンが分泌されるのである。


以上からも理解できるように、快不快の2択で考えたとき、我々の行動原理はほぼ確実に快の方が選ばれる。

これは我々が動物のときから受け継いだ要素であると考えられる。
なぜなら、快なものとはたいてい生命維持を安定させ、不快なものとはたいてい生命の危機に基づくものであるからだ。

つまり、報酬系を働かせることは、生命維持にとって非常に強力な意味を持つのである。

ゴール達成に向けて、このプライミングを用いるというのは、言い換えるとゴール対してストーカーになることである。

プライミングとは、我々がすべからく持つ欲求という武器を最大限に発揮させる機能である。


確かにプライミングは強力な技術であり、欲求を解放することでゴールまでの道のりは遥かに平坦なものとなるが、この考え方はなかなか受け入れ難いものである。

なぜなら、上記までの内容で考えた場合、ひらたくいえば自分の欲望を爆発させることが、ゴール達成への近道であると理解できるからである。
そこだけを取り上げると、それはただの野生動物と同じである。

また、そこに一見高度そうな論理がそこに重なれば、それはヒトラーになる可能性を孕んでいる。

なので、我々の感覚的には欲求を満たすということは否定的に捉えることが多く、むしろ親や社会から自制の方が重要であると学ぶ機会の方が圧倒的に多い。


ここで自制に関する研究として、マシュマロ・テストを取り上げたい。

ウォルター・ミシェル著 マシュマロ・テスト p.11
(引用開始)

就学前にマシュマロ・テストで長く待てた人は、二七歳から三二歳にかけて、肥満指数が低く、自尊心が高く、目標を効果的に追求し、欲求不満やストレスに上手く対処できた。

中年期には、一貫して待つことのできた(先延ばしにする能力の高い)人と、できなかった(先延ばしにする能力の引い)人では、中毒や肥満と結びついた領域の脳スキャン画像でははっきりと違いが見られた。

(引用終了)


マシュマロ・テストとは、4歳以下の未就学児における自制心と社会的成果にかかる実験のことである。

マシュマロ・テストは本来、「先延ばしにされたものの、より価値のある報酬のために、未就学児が自らに課した、即時の欲求充足の先延ばしのパラダイム」という長い名前であったが、ニューヨークタイムズによって、マシュマロ・テストというわかりやすい名前を獲得した。


この実験内容はとてもシンプルである。

未就学児に彼らのマシュマロのような好物を見せ、15分待つことができたらもうひとつマシュマロをプレゼントするというものである。

子供は当然脳の発達が大人と比べ未熟であり、脳内では扁桃体からのマシュマロを今すぐ食べろとのホットな衝動と、前頭前野からの15分後にマシュマロを2つ食べろとのクールな判断が対立する。

このとき、自制できた子とそうでない子にもちろん別れたが、その後の追試験の結果は非常に大きな差となったことは、上記の引用の通りである。

自制できた子とそうでない子を、40年にもわたる追跡調査することでこの事実が明らかになっている。

自身の欲求に対し、冷静に対処できる能力は、自身のゴールを達成するにあたって必要な努力を行うという意味でも大いに役立つ。

しかし自制は確かに有効な戦略のひとつであるが、自制をし続ければいいのかといわれれば、それはもちろん間違いである。

なぜなら、自制をし続ければ、我々は容易に壊れるからだ。 


欲求の充足と自制という二つの相反するパラダイムを踏まえたとき、そこからより明確に浮かび上がるのはゴールの存在である。

つまり、ゴールが先にあることで、充足すべき欲求と、自制すべき欲求が明確にセパレートされるということである。

適切な欲求の充足はゴール達成に非常に効果的であるものの、それはあくまでゴールを達成するために必要な欲求に限られる。

逆向きにいえば、その他のゴールを達成するために必要がないと思われる欲求には、自制が必要である。

欲求の充足でさえも選択であり、ゴールを達成するために必要なことかどうかという視点は常に確保したい。


人間にはすべからく欲求が存在し、そのおかげで我々は生きることが可能である。

しかしその欲求は使い方ひとつで、我々を幸にも不幸にもする。

また、プライミングとは我々の欲求が持つパワーを全開にする技術であるが、我々が重要だと認識するWant-toも同じく欲求である。

Wantの語源を辿ると、古期北欧語で「欠けている」という意味にたどり着くように、本来Want-toとは渇望と訳す方が適切である。

娯楽的に楽しく、ふわふわやることが、コーチングが要請するWant-toではない。

そこにはレバーを押し続けるラットのように、それがやりたくて仕方がないという強烈なモチベーションが重要である。

そしてそのWant-toが要請されたとき、ゴールの臨場感が高まり、初めてゴールを達成することが可能である。


ぜひ本書を手に取り、欲求と自制を最大限に高め、ゴールを達成してほしい。

 






ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


私たちの世界とは、自分の心が産み出した世界です。

自分が産み出した世界ということは、ひらたく言えば誰一人として同じ世界を観ていないということです。

これは特別突飛由もないこといっているわけではなく、自分の認知の仕組みをきちとたどれば、誰でも行き着く事実です。


観ている世界が自分勝手に作られた世界なら、当然自分の好きなように観ていいとも解釈することも可能です。

それが私たちのゴール設定のもうひとつの姿であり、それが情報空間の移動です。


自分だけの、自分が好きなように作った世界なら、その移動や作り変えも、とても簡単に出来そうな気がします。

しかし実際はそうできないように、ホメオスタシスという機能を持ちいて、同じ状態を担保します。

なぜなら、ホメオスタシスがなければ、それ自体がすぐに崩れる砂の城のように、自分の世界が何処かへ霧散するからです。


もちろん長く砂の城を保たせるという意味では正解ですが、もう一度同じ場所に別のデザインの城を作ろうとした場合、崩すことは極めて困難です。

その困難さを、私たちはメンタルブロックという言葉で表現します。

ではそのメンタルブロックがなければとても簡単にうまく機能するかといえば、それはもちろん早計です。

なぜならメンタルブロックは意味があってきちんとブロックしているからです。

それはたいてい自分を護る盾のように出来ています。


もちろん自分を護るための盾だとしても、相手と自分が明確に遮断される以上、自分だけが相手に干渉できるはずがありません。

その場合は、躊躇せず、相手から自分が干渉されるリスクを冒して、盾から自分の身を乗り出すことが必要です。

となる場合、それが現状の外側なのか、それともただのメンタルブロックなのかは、とても微妙なラインです。


では現状の外側なのか、それともただのメンタルブロックなのかを明確に切り分けるにはどのようにすればよいでしょう?

その答えはとても簡単です。

ゴールに合致するかどうかです。

ゴールに合致するならば、それは現状の外側であり、克服すべきメンタルブロックです。

そうでないのなら、現状の外側ではなく、克服の必要がないメンタルブロックです。


このとき論理は役に立ちません。

私たちが良く知るように、理性で高度な推論を決定させることはできないのです。

そこには『行きたいか』だけであり、『行きたいか』だけが争点です。


もし行きたいが根底にあるのなら、そのときは怖れをなさず、自分から思いっきり飛び込むことです。

それ以上の理由は不要です。

IMG_1892
※飛び出したかったなら飛び出すだけ


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