苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:RAS

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


という風に、昨日の1対1のパーソナルコーチングに際、軽く叱られてしまいました!

『私、毎日チェックしてますから!』とプレッシャーをかけられたのも、もしかしたら初めてかもしれません!ww

確かに前回の記事が2月24日に公開だったので、2週間近くブログを更新していないことになりますが、個人的にそんなにきちんと読んでいただけたことに、感謝です!


言い訳をすると、ネットワークの不調により、これまで全くブログ等の媒体にアクセスができませんでしたが、昨日の夕方にようやく諸々が復旧しました。

もうひとつ言い訳をすると、私もこんなにブログの更新が止まることがなかったので、「ブログ書かなければ!」と内心結構焦っておりました!

ここ数年間、ずっとブログを書き続けていたので、今考えればコンフォートゾーンになっていたということでしょう!

何にせよ、これでまたブログやメルマガなどの情報発信が行えます!


さて、昨日は6ヵ月コーチングの最後の1回でしたが、最後も色々な発見がありましたね!

今の大きなテーマはご自身の未来のことです!

もちろん守秘義務があるので、この場で具体的な内容には一切触れませんが、未来に眼を向けたなら、そのゴール一点をただひたすらに見つめ、そしてその臨場感をどんどんあげていくことです! 

私たちはついつい、自分の今やっている選択肢が、本当に自分にとってよいものかであるかを悩みますが、結論をいえばどの選択をとっても正解です!

そしてその選択が常に最高の選択です。


言葉尻だけをとらえると、どうしても大ざっぱでいい加減に聞こえますが、実際にその選択が本当に正しいかどうかの結果は未来のその瞬間がやってこなければわかりません。

しかも仮にその選択を取ってみて、いい結果が返って来ても、次の機会にはそれをひっくり返すような出来事が起こるかもしれません!

もちろん逆も然りです。

人間万事塞翁が馬とか、禍福は糾える縄の如しということわざの通りです!


しかし、これがコーチングの面白いところであり、不思議なところですが、自分がゴールに向かってエフィカシーを高く持ち、ゴール側の臨場感を高く維持が出来たなら、どんなプロセスを通っても最終的にはそこに行き着います!

ダイソンもビックリの吸引力です!ww


他にも、あまり昔の嫌なことやネガティブな経験に対する臨場感も全く出てなかったですね!

6ヵ月の期間を通じて、ちゃんと不要なものも取り除けたので、ある日突然もう身体が動かなくなるということはないでしょう!

 
ちなみに苫米地式コーチングを受けてみて、過去のことが思い出せなくるということが頻繁に起こります。

その回答はとてもシンプルで、個人の持つ重要性が変わるからです。

重要性とは何かといえば、そのひとが五感から得る膨大な情報の中から、無意識の選択を通じて、意識の上にあがる基準のことです!

つまり、自分の重要性が高いものが意識の上にあがり、そうでないものは存在にすら気付かないということです!

例えば、FF13が好きならばライニングさんの姿に眼がいき、ルイヴィトンに興味があるならばルイヴィトンに眼がいくということです!


@ルイヴィトンとコラボしたFF13主人公ライトニングさん


話を戻しますが、その重要性が何かといえば、結局は自我であるということでした!

重要性関数とは、自我のことでしたね!

私たちのコーチングの流派は、他のコーチングの流派と決定的に違う点は、内部表現の書き換えを取り入れている点です。

簡単にいえば、コーチングを通じて別人になっていくこということです!


別人になれば、過去に経験した出来事への意味合いが変わることは当然です。

またひとによれば、重要でなくなるので、思い出す必要もありません。

昨日はいたズボンを今日の洗濯に入れそびれたかどうかはどちらでもよいことです。
なぜなら、入れ忘れたらまた次の機会の洗濯で洗えばいいからです。


そういう意味で、私のコーチングでは期間中のメールのやり取りを頻繁にすることを薦めています!

もちろん楽しくWant-toという前提です!


どんな内容でも必ず返信をお書きするのは当然として、それはサービスの一環というより、私個人の本音では、その方が変化が早まるし、何より過去の自分が書いた文字情報を残しておくことで、ふっと見返すと、その差分で自分の変化がようやく明確になるからです!


『え!こんなこと考えてたっけ?』というのは結構ザラに起こります!

モチベーションをあげるだけあげて、そのときはいい話聞いたわーと満足するけれど、3日くらいでその効果も消えて、結局何も変わらないよりは遥かに良いでしょう!

しかし、変化が自覚しにくいという点で、効果がありすぎるというのは、ある意味問題なのかもしれません!

明らかに贅沢な悩みですが、どちらがよりクライントの利益かを考えれば、もちろん答えは明白です。


ということで、とある企画にご協力いただけた特典のボーナスセッションはまた来月です!


こちらもまた、楽しみにしています!!


もっともっと先にいけますよ!

これからも応援しています!!

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『洗脳護身術』

本書は認知科学的に洗脳のメカニズムを解き明かし、詳細なマインドエンジニアリングについて記述した洗脳の入門書である。

本書は、相手を洗脳する方法論が詳しく書かれているが、タイトルにもあるように、それはあくまで護身を目的としたものである。
なぜなら、基礎理論を知らねば、相手からの攻撃に対して防御ができないからだ。

基礎理論を公開することには、当然リスクが存在する。
なぜなら、基礎理論を知ることで悪用可能になることもそうだが、その洗脳技術を踏襲した強力な新技術が生まれる可能性もあるからだ。
 
コンピュータウィルスとウィルスバスターのいたちごっこと同様である。

ただ、包丁が使い手により、料理にも強盗にも使えるように、マインドエンジニアリングもただのスキルでありただの技術である以上、使い手によって祝福にも呪誼(じゅそ)にもなる。

洗脳技術を学ぶにあたって、我々はそれを扱うに足る強い理性と高い知性を同時に獲得せねばならない。


さて、詳しい内部表現の書き換え方法は本書に譲るが、マインドエンジニアリングとは内部表現の書き換えのことである。

内部表現の書き換えとは、まさに自他共に洗脳することである。

内部表現の書き換えにおけるエッセンスは、変性意識、内部表現、ホメオスタシスの3つである。
順に定義していきたい。

変性意識(Altered States of Consciousness)とは、現実世界よりも仮想世界への臨場感が高い状態を指す。

変性意識状態を、別の言葉で言い換えるなら、それはトランス状態である。

トランス状態とは、例えば幻覚を見ている状態あり、就寝時に夢を見ている状態である。
他にも、酩酊状態がトランス状態である。

このトランス状態における深度が、いわば仮想世界における臨場感と比例関係にあり、トランスが深くなればなるほど、高度な働きかけが可能になる。

変性意識状態を厳密に定義するならば、ものを認識するという行為がすでに変性意識状態であるため、本来すべて変性意識状態である。

なぜなら、我々の目に見えたものは、基本全て無意識が介入し、現実世界をありのまま見ずに、何らかの解釈が走っているからである。

そのため、逆向きに通常意識を定義すると、何ら解釈を挟まず、現実世界をありのままに観るということである。
そして、それが可能なのは『空』を体感した状態のみである。


内部表現(Internal Representation)とは、我々が観ている世界そのものを指す。

我々の認知は五感を通じて外部から入力された約1100万ビットの情報と、過去の記憶との照合によって得られた出力結果を意識する。

このとき内部表現とは、入力情報と記憶情報を照合する計算メモリのことである。
意識とは、この計算メモリに映った情報である。

例えば、今PCないしはスマートフォンのモニターに映るブログの文字情報は、実体であり見えているため内部表現である。
また、PCを観てIBM、スマートフォンを観て故スティーブ・ジョブズを連想しても、内部表現である。
つまり、頭の内外問わず、自分の意識、無意識を含む、情報全てが内部表現である。


ホメオスタシス(Homeostasis)とは、心身をある一定の状態に保とうする働き(恒常性)のことである。

例えば、我々は暑いときに汗をかくのはホメオスタシスによる影響である。
なぜなら体温は36度を保つように設定されているからである。

他にも、女性の生理周期もホメオスタシスに起因する。

ここだけ説明すると、ホメオスタシスとは、ある不動の一点において常に恒常性が働くように感じるが、もちろんそうではない。

この基準点は状況によっていくらでも変えることができる。

そのため、英オープンユニバーシティ大学のスティーブン・ローズ教授は、基準点も動的に動くことから、ホメオスタシスはホメオダイナミックスと呼ぶべきであると主張している。


以上を踏まえると、内部表現の書き換えとは、被験者を変性意識状態にし、現実世界よりも仮想世界の臨場感を高めることで本人の思考と行動(内部表現)を仮想世界に移し替え、ホメオスタシスで固定化する行為であるといえる。

これらは全て人間ならば誰しも持つ機能である以上、洗脳を受けないひとはない。
よって、最低限の知識と護身術は必要不可欠である。


実際に内部表現を書き換えるにあたって、重要になるのは共感覚である。

共感覚(Synesthesia)とは、五感のある感覚器官から得た情報を、別の感覚器官へマッピングできる能力のことである。

例えば、ピアノの音を聞くと赤色が見え、レモンの酸味をザラサラしていると皮膚感覚で感じることである。
そして、この共感覚は生得的に10万人、ないしは100万人にひとりの割合でいると言われている。

上記の例だけ観ると、共感覚とは特別な人の特殊な能力のように感じるが、実際は誰しもが持っている能力である。

これを裏付けるブーバ/キキ効果を紹介する。

ブーバ/キキ効果とは、心理学者ヴォルフガング・ケーラーが報告した心理効果である。

被験者にそれぞれ丸い曲線とギザギザの直線とからなる2つの図形見せ、どちらがブーバでどちらがキキと名付けるかを答えてもらったところ、約98%の人が「曲線図形がブーバで、ギザギザ図形がキキだ」と答えた。

しかもさらにがおもしろいのは、被験者の母語にほぼ関係がなく、また大人と幼児でもほぼ変わらない点である。

この理由は『ブーバ』の音の中に丸さを、『キキ』の音の中に鋭さを、無意識的に感じているためであると考えられている。
このマッピングの感覚こそが共感覚であり、これは我々がすでに生得的に共感覚を持ち得ている証拠である。

従って、我々は生得的に持っていた共感覚を、成長とともに不要な能力として捨てていったと解釈する方が妥当である。
 
なお、苫米地理論では、この失われた共感覚も、今後訓練次第で後天的に獲得が可能であるという立場を取っている。


以上が共感覚の全貌だが、上記のようなマッピングは、内部表現の書き換えにおいてあまり必要ではない。

重要なのは、五感から得た情報を共感覚的にマッピングしていきながら、臨場感を持って相手の仮想空間を創り上げていくことである。

例えば、私は過去、うつ病のひとの内部表現に介入したことがあるが、そこから共感覚的に取れた風景は、粘性の強いマグマのような高温の流体が、渦を巻きながら奥へ奥へと深く潜り込んでいくものであった。

うつ病とは、社会的にまだまだ怠けているとか努力が足らないといった理解がなされているが、それは大きな間違いである。
 
内部表現に介入することで初めて、彼らの本当の苦悩と絶望が理解できることを補足する。


話を戻すが、臨場感を持って相手の仮想空間を創り上げることができて、内部表現の書き換えが可能となる。
つまり、共感覚とは臨場感生成のテクニックに他ならない。 
また、同時にこのとき仮想世界の支配者となる必要があり、それには変性意識の深度も重要である。


これは見方を変えれば、相手の内部表現に介入しているということは、単独で敵の牙城へ攻め込むことを意味する。

つまり、内部表現を書き換えるということは、逆に書き換えされるというリスクを常に抱えているということである。

そのため、内部表現を書き換えるとき、それは殺し合いといった方が表現として適切である。
現状の自我を殺し、ゴール側に自我に置き換えることで、書き換えを完了する。

安易な好奇心による書き換えは、自分も他人も身を滅ぼす大変危険な行為であることを強く戒めたい。


最後に、本人が望む望まないにかかわらず、洗脳はひとの認知プロセスに基づくものである以上、決して逃れることはできない。

つまり、ひとの機能として洗脳される可能性を秘めているということである。
そうである以上、上手く付き合い、そして上手く使っていくことが必要である。

それは他人に自分の心をゆだねるということではなく、自分にゆだねて、自分のゴールに向かって洗脳していくということである。


この考え方は、コーチングにおけるスコトーマの原理と似ている。

スコトーマとは、心理的盲点のことで、実際視覚的に見えているにも関わらず、眼の前情報が見えないということが起こる。

これはRASの情報をフィルタリングする機能によるものである。
 
確かに獲得した情報全てにアクセスできないのは非常に不便に感じるが、そのおかげで脳が消費するエネルギーを節約でき、我々は餓死せずに済む。

つまり、スコトーマは機能としてどんなに頑張ってもなくならない以上、自分のゴールに基づく自分の観たい情報だけを観れば良いという結論につながる。


内部表現の書き換えは、強い倫理観を備えることで、我々のゴールを呼び込む大きな福音となる。


ぜひ本書を手に取り、自分の未来をその手で書き換えてほしい。

 




『洗脳原論』

本書はオウム真理教信者への脱洗脳を背景とした、洗脳の本質とその理論的背景、そしてその脅威に迫ったドクターの処女作である。

オウム真理教という歴史的にも類を見ないカルト教団の脱洗脳の現場に当たり、その一部始終を納めた大変希少な著書である。
本書の出版を通じて、名実ともにドクターは脱洗脳の第一人者となった。

ドクターが脱洗脳の第一人者であると、何を持って証明するかは、根拠が多々あり、迷うところであるが、この場では少なくとも洗脳という技術が開発された目的は、相手を意のままに操作することであるという立場を取る。

つまり、時間的、経済的コストをかけてせっかく洗脳したものを、わざわざ脱洗脳しようとは考えないということである。
洗脳とは本来、未来永劫その洗脳状態が続くことを要請するものである。


さて、一般的に洗脳とは『強制力を用いて、ある人の思想や主義を根本的に変えさせ、特定の思想や主義を持つように仕向けること』と認識されている。

しかし、洗脳というものを考察するにあたって、この理解は不十分である。

なぜなら、強制力を持ちいらずとも、洗脳は十分可能だからである。
例えば、情報遮断がそれにあたる。

現在日本経済において、アベノミクスが素晴らしいと政治家を初め、マスメディアがその情報一色だけを配信しているが、これも情報遮断の一例である。


これはよくニュース等で頻繁にすり込まれた、『株価 = 経済指標』という洗脳による結果である。
確かに実体経済が成長することにより、株価上昇が起こることは事実だが、逆はこの限りではない。

なぜなら株価は資金さえ投入すれば、いくらでもつり上げることが可能だからである。


また、TPPに関しても同様である。

TPPは平成の開国であると、また日本にとって経済的メリットが非常に大きいと、政府、マスメディアともに賛成一色の情報を流すが、実際は我々の所得や生活をアメリカに差し出す政策である。

TPP締結により、秘匿されていた条文が公開されたが、内容があまりにも酷い。

興味がある方が、以下のドクターの解説動画を参照されたい。



@東京MXにおけるドクターのTPP解説動画


話題の中心を洗脳に戻す。

我々が洗脳という言葉を聞いたとき、どこか血生臭く、遠い過去の悲劇的な事実、今の自分たちとは無縁なものであるという感覚を持つが、上記からも推測できるように極めて身近な概念である。

そして、もちろん強制力を用いて人を洗脳することも洗脳である。

洗脳はどちらの場合であっても、我々の認知プロセスと密接に関わっていることは明白である。

そのため、洗脳という言葉をひとことで定義することは非常に難しい。

また、洗脳の一番厄介な点は、本人は一切洗脳されたと自覚していないことである。
『あなたは洗脳されている』と言われれば、猛反発することは眼に見えている。


洗脳というものを考えるにあたって、きちんと定義することが必要だが、この洗脳という行為自体が捉えきれず、困難である。

そこで洗脳の定義を、まず洗脳の歴史と認知科学的な観点から考えたい。


冒頭に少し戻るが、洗脳が持つ機能とは、個人の思想や主義が別の思想や主義にいつの間にか置き換えられることである。

我々の認知は、毎秒約1100万ビットの情報から、有益な数ビットの情報を取り出すために、RASがフィルターの機能を果たすが、このときフィルタリングする基準となるのが、過去の情動の伴った記憶と経験である。

誤解を恐れずにいえば、我々の思想や主義の正体は、この過去の記憶と経験である。

また、このときRASというフィルターから弾かれた情報が何処にいくのかといえば、それも過去の記憶として貯蔵される。

そしてそれらの情報は、再び次に獲得する情報群から有益な情報を取り出すための、RASのフィルタリング基準として採用される。

RASの機能からも十分想像がつくが、一番オーソドックスな洗脳方法とは、この情報遮断である。
なぜなら、洗脳者とって都合のよい情報だけを配信し、獲得させ続ければいいからである。


余談だが、日本の場合、この仕組みを支えるのが記者クラブの存在である。
記者クラブとは、公的機関や業界団体などの各組織を継続取材を目的とするために大手メディアが中心となって構成されている任意組織である。

大手メディアが報道する情報は、基本記者クラブを通して獲得することなるので、基本どのメディアも横並びとなり、同じスクープを出す。

当然、この記者クラブを押さえることができれば、日本の世論は半分獲得したことになる。
なぜなら、発信すべき情報とそうでない情報を分けることができ、情報遮断を促す環境が出来上がるためである。


また、この情報遮断とは、歴史上最も古い洗脳手法であるといわれている。
かつて旧中国共産党が、朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為も、この情報遮断である。
つまり、米兵に共産党が如何に素晴らしいかという情報を延々と説き続け、そしてダブルスパイとして活用しようとした。

なお、この情報遮断はより若い人ほど、効果的な方法である。
なぜなら、若い人の方が、判断する根拠が少ないからだ。

より少ないコストで判断基準を上書き出来ることもそうだが、何より今後獲得した情報を用いて人格が形成され、未来永劫その判断基準を用いて生きてくれることになることである。

これは赤ん坊を日本で育てれば日本人になり、アメリカで育てればアメリカ人になることと本質的に同じである。


もちろんこの方法論でも十分洗脳効果はあるが、大人になってからだと洗脳時間が短いという欠点もあり、それを克服するために開発されたのが、サイキック・ドライビングである。

サイキック・ドライビングとは、CIAが首謀したMKウルトラ計画において開発された洗脳手法である。
 
なお、MKウルトラ計画とは、洗脳実験のコードネームであり、そのときの記録は殆ど破棄されているため、現在においても実験の全貌を解明することは困難である。

これが我々が一般的に連想する洗脳のイメージに最も近い。

つまり、肉体的、精神的に多大な苦痛を与え続け、自我を崩壊させたところに、洗脳者とって必要な情報を書き込む洗脳手段である。

自我とはゲシュタルトであり、様々な要素が複合的に絡み合っている。
一度ゲシュタルトが崩壊しても、脳は機能として再びゲシュタルトを再統合しようとする。

このときに不純物が混入しても、本人は一切気付かない。
そして自我の中に不純物が取り込まれるので、基本洗脳効果は永続する。
すなわち別人になる。

また、徹底的な苦痛を与えると、なぜ自我が崩壊するかいえば、私は一種の防衛本能であると考えている。
多大に押し寄せる苦痛という情報に対し、それらを緩和するために、一度自我を破壊して心身を護ろうとしているのだと思う。


サイキック・ドライビングについてのより詳細な情報は、ハービー・M・ワインスタイン著『CIA洗脳実験室~父は人体実験の犠牲になった~』を参照されたい。

あまりにも酷たらしい仕打ちの数々に、この場での引用は控える。

これはあくまで本書を読んだ個人的な感想であるが、人はなんと愚かな生き物かと、心底嫌気が指す。


そして、最後になるのがオウム真理教である。

オウムの用いた洗脳手法は、実はこのサイキック・ドライビングを踏襲した極めて近代的な洗脳手法である。

サイキック・ドライビングの弱点は、洗脳するために、膨大なコストをかける必要がある点である。
肉体的、精神的苦痛を与えることもそうだが、長時間誰にも見つからないところで監禁する必要もある。

サイキック・ドライビングを通じて、洗脳に必要なことは変性意識状態を作ることが必要だとわかっていたので、オウムはこの弱点を補うため、LSDなどの薬物を用いた。

LSDとはリゼルグ酸ジエチルアミド(独語:Lysergsäure Diäthylamid)の略で、覚醒剤のひとつとして現在禁止薬物に指定されている。

これを用いて被洗脳者を強制的に変性意識状態にし、そこに「修行するぞ」と連呼したテープを聴かせ続け、信者にしたてあげていった。

他にも、専用のヘッドギアを用い、脳の局所に電気的パルスを流して、記憶の操作も行った。 


これらの洗脳手法は、時代ともに目立った活動が出来ないことも事実だが、人間の持つ本来の認知の機能として、環境さえ整えば容易に人は洗脳されることを教えてくれる。

また、洗脳の歴史として、そこには必ず他者を洗脳することで、利益を甘受できるものが現れ、そこに当人の利益はない。

そのため洗脳とは、『当人の利益ではなく、第三者の利益になる、思想や主義の置き換え』と定義できる。


しかし、この定義でもカバーできないグレーゾーンが存在する。

それは教育である。

教育とは定義上、当人の利益となるように知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすることである。

そしてその教育を定めるのは国家である。

そのため、例えば我々は北朝鮮の行為を洗脳だと批判するが、彼らは国家の規定、ないしは憲法に則った紛れもない教育である。

私はその世代の人間ではないが、当時の富国強兵も教育にあたるだろう。


なお、コーチングのコンテキストで考えれば、コーチングも教育であり、十分洗脳の範疇に入る。

なぜなら、クライアントに必要なものを見せるために、スコトーマを外すが、逆向きにいえば、それ以外をスコトーマで隠すからである。

しかし、コーチングが究極的に我々が恐れる洗脳となり得ないのは、その利益が教祖などの第三者ではなく、クライアント本人の利益だからである。

もっといえば、ゴールはクライアントが定めるものであり、そのゴールに対してのみ機能するのがコーチである。

また、コーチは場合によって、クライアントの過去のトラウマやうつ病といった心の病とも闘わなければならない。

私個人の経験で言えば、それはむしろ脱洗脳に近い。
 
なぜなら、我々が気にするメンタルブロックとは、往々にして過去の嫌な記憶や経験を踏まえて最適化され、生まれたものだからである。

その最適化されたゲシュタルトを、他の要素と統合させ、新たな別のゲシュタルトに創り上げる。


最後になるが、洗脳されず、自分らしい人生を生きて行くにはどうすればいいのか、という普遍的な問いが残る。

現在は超情報化社会であり、意図しなくても、逆向きの意味での情報遮断を受けることもあり、洗脳というものがより身近に、より判断がしづらくなっている。

また、それらの情報もどこかで一元化されている可能性も否定できない。


それを踏まえ、自分らしく生きる方法を回答するならば、日々知識を蓄え、抽象度をあげることである。

我々は知らないものは認識できないこともそうだが、洗脳とは自分の現状のゲシュタルトと他の不純物を紐付けることよってなされる。

仮にその紐付けられたゲシュタルトを、もっと抽象度の高いところで他の知識と紐付け、そして大きなゲシュタルトにすることができれば、そのとき洗脳された意味付けは他の意味付けに変わる。

これは究極、空を悟ったひとに洗脳は効かないということと同じ論理である。

つまり、我々に出来ることは、日々抽象度をあげ続けることである。

それが自分らしい人生へとつながる。


ぜひ本書を手に取り、洗脳を看破する、圧倒的な抽象度と慧眼を獲得してほしい。

 












『幻想と覚醒』

本書は21世紀の悟りを紐解きながら、我々の幸福とは何かについて書かれた書籍である。

なお、ここで21世紀と形容しているのは、釈迦が行った思考実験のみによる悟りではなく、現代数学や現代分析哲学等を踏襲した形式化を経た悟りであるためである。
形式化とは、数学で記述されたということである。


さて、私たちの幸福ついて考えるにあたって、はじめに現実(Reality)とは何かについて定義したい。

なぜなら幸福とは、『恵まれた状態にあって、満足に楽しく感ずること。しあわせ』と定義され、現実世界において要請される概念であるからである。
 
もちろん現実世界でないところでも幸福という概念は成り立つが、誤解を恐れずにいうなら、それはただの妄想である。


早速だが、現実とは、『いま目の前に事実として現れている事柄や状態』であると広辞苑では定義される。

この定義に当てはめて、「現実」をブログの文字情報を映すPCのモニターだと考えてみよう。
無論、スマートフォンのモニターでも構わない。

この文字情報を集中して真剣に読めば読むほど、その他の視覚情報がどうでも良くなる。
なぜなら、重要性が下がるために、目に写っていても脳に意識されないからだ。

つまりそれは見えていないということになり、見えていない以上は、脳にとってそれは現実ではないということになる。

コーチングの父である故ルー・タイスが好んだワークのひとつに腕時計を使ったスコトーマ実験がある。

まず最初にルー・タイスは「いま時間は何時ですか?」と聴衆に聞く。
そして、時間を確認してもらったあとに、その腕時計を見ないで、ノートにその腕時計をデッサンしてもらう。
 
そうすると驚くことに、いま見たにも関わらず、腕時計の絵が正確に描けないのである。
 
別に上手に描かなくても良く、特徴を押さえてあれば良いのだが、ひとつも間違えないで描ける人はほとんどいない。
3カ所、5カ所、10カ所以上も間違えている人が続出する。

ある人は無い数字を書いてしまったという。
例え、デザインが気に入って買った時計にも関わらず、買ってからは脳はもうデザインを見ていない。


この要因は、端的に我々のRASによるものである。
 
RASとは、獲得したたくさんの情報から必要な情報を選別するフィルターシステムのようなものである。
つまり、ひとつの目的が決まれば、無作為な情報の中から必要な情報だけを抜き取り、その他一切を処分する機能である。

また、このとき私たちが認識する情報のことをゲシュタルトという。
ゲシュタルトとは、全体と部分の双方向からなるひとつの意味を持つ塊のことである。


我々が知るべき脳科学や心理学の歴史を物理学や数学を踏まえて解きほぐしてくれる必読の書であるユーザーイリュージョンから、この事実をもう少し掘り下げる。

トール・ノーレットランタージュ著 ユーザーイリュージョン p.233
(引用開始)
 
ゲシュタルト心理学は、行動主義が全盛を極めた20世紀初頭には影が薄かったが、今日、名誉と権威を回復しつつある。

全体性と仮説の観点からでないと視覚を理解しえないことが明らかになったからだ。

私たちは感知したものをそのまま目にするのではない。感知したと思うものを見る。

意識に上るのは解釈であって、生のデータではない。

意識されるよりはるか以前に、無意識のプロセスによって情報が処分され、その結果、私たちは一つのシミュレーション、一つの仮説、一つの解釈を目にする。

しかも、私たちに選択の自由はない。

(引用終了)



上引用を理解するために、ここで有名な錯覚のひとつである「老婆と若い女」を取り上げたい。

これはある一方では老婆であるように見えるが、もう一方では若い女が見えるという馴染み深いだまし絵であるが、「認識する」という観点から考えると、錯覚とはとても奇妙な事例であることに気付く。

それは、内在する2パターンのゲシュタルトのうち、どちらか片方だけが勝手に選ばれたということである。

本来一枚のだまし絵の中には、もともと老婆と若い女という2通りのゲシュタルトが内在していた。
しかし、例えば老婆が見えた場合、若い女が切り捨てられ、実際取れる情報は老婆だけである。
つまり、図と地における、老婆が図となり、若い女が地となる。

この現象を説明するには、意識するという行為の前からどちらか片方の意味付けがすでに完了していたという風に考えることが妥当である。

つまり、私たちの経験する事柄は、意識される前にすでにどちらか片方のゲシュタルトを獲得していたということである。

これはあくまで、話を簡潔にするために、だまし絵という内在している2パターンの情報を全て知っているという前提で考えているが、今こうしているだけでも得られる毎秒約1100万ビットもの情報に対しても同様のことがいえる。

つまり無数のパターンが内在し、ひとつのゲシュタルトを残し、その他大多数の内在していたであろうゲシュタルトが全て処分されているということである。


では、ここでなぜそのひとつが選ばれたのかということについて考えるために、バインディング・プロブレム(結び付け問題)を取り上げたい。


具体的に乗馬を例としてバインディング・プロブレムを考える。

乗馬中、五感を通じて様々な情報が外界から獲得され、それが分別されて脳内の様々な領域へ送られる。
 
その後、さらに無数の神経細胞の間で細分化され、個々の細胞は辺、形、動き、色、光景、コントラストといった特徴を残らず分析してからそれを再構築し、乗馬の合成イメージを組みあげる。
 
さらに、ここに視覚だけではなく、聴覚、触覚、嗅覚、乗馬の嬉しさや楽しさといった情動とこのイメージを関連づける。


もちろんここだけ見れば、誰しも同様に脳内で刻一刻と結び付けがされているが、個人ごとに各要素の結び付けの割合が違うことは自明である。
個人によって結び付けられる要素と、そうでない要素も当然存在する。

何を持って個々人の結び付けがなされているのかを問うたものが、バインディング・プロブレムの本質である。

 
バインディング・プロブレムについては、細かい学説が多々存在し、現在でも非常に多くの論争が存在するトピックであるが、この場では個人の過去の情動をともなった記憶と経験によって、結び付けの割合が異なるという立場をとる。
コーチングのコンテキストで考えるならば、これはブリーフシステムである。

また、この結び付けの際、各要素が結び付いたこと(ゲシュタルト化)で初めて意味をもつが、単一の各要素だけではその意味を持たない。

つまり、世界にある無数の情報は、単一では意味を持たない情報の連続であり、そこから取り出すゲシュタルトは、個人個人で異なる。

言い換えれば、それは自分の観たいものだけを観ているということであり、もうひとつ踏み込んで言及すれば、それは幻想である。

なぜなら、絶対的な客観的現実など存在ぜず、また意味を持たない情報群のなかから、勝手に自分独自の意味を見出しているからである。


さて、悟りとは『空を体感する』という言葉で置き換えることができる。

厳密にいうならば、歴史的背景として釈迦は空という概念を提唱しておらず、釈迦が行き着いた結論は、あくまで縁起思想である。
その後、大乗仏教を大成し、理論化に成功した龍樹(ナーガールジュナ)やツォンカパが縁起の説明原理として空を用いた。
 
なお、龍樹の主著が「中論」であり、ツォンカパはチベット密教のゲルグ派の開祖である。

空とは、存在論における最上位に位置する概念である。
すなわち、現代分析哲学の存在論において、宇宙は包摂半順序束集合として記述される。
包摂関係のある情報が情報量の大小で並べられたときに、そのTopとなるのが空である。


最上位に位置するとは、全ての存在を包摂するということであり、全ての存在が同列に位置するということである。
つまり、「空」に達するとは重要性関数が無くなるということであり、すなわちすべての存在が同列に位置することになる。

全ての存在が同列であるということは、全ての存在がただの情報であると知ることに他ならない。

全ての情報が同列であり、そこから意味を勝手に作り出すことが無意識の機能であれば、自分の望む意味を勝手に作っていいとも解釈できる。

そして、自分が選択することとは、本来その機能として幸福である。

なぜなら、選択とは常に我々が今よりもっと良くなるために行う行為だからである。

また、選択には当然義務と責任が伴う。
それは、言い換えれば束縛である。

しかし、その束縛も自分が望んで選んだものであれば、それは本質的には束縛ではなく、自由である。
そして、いうまでもなく、束縛を選ぶこととは、自分の幸福を選ぶことである。


ぜひ本書を手に取り、幻想から覚醒し、心から望む束縛を選んでほしい。










『夢が勝手にかなう脳』

本書は、情報空間と物理空間の連続性を背景に、自分らしい人生を生き、そしてゴールを達成するメソッドを公開した書籍である。

情報空間から物理空間へ渡る情報の連続性についての議論は、苫米地理論における中心概念のひとつであり、また苫米地式コーチングが苫米地理論から生まれた歴史を鑑みると、確実に押さえたいパラダイムである。

なお、本書ではこれまでの著書のうち、唯一A次元(アブストラクト次元)について言及された著書でもある。


情報空間と物理空間の連続性の理解には、情報空間と物理空間の包摂関係についての定義から始める必要がある。

この問いを考えるにあたって、哲学の世界にて長く議論されてきた「存在VS認識」の論争を取り上げたい。


この論争は言葉の通り、存在があって初めて認識が生まれるのか、それとも認識があって初めて存在を知覚することができるのかについての議論である。

例えば、物理世界に存在する「木」を見て、初めてそれは木であると私たちは認識している。
つまり、「木」という存在が先にあって、後から木という名前を付けたということである。

しかし、iPadのような精密機器は、確かに現在物理空間に存在しているが、古来よりずっとあったものではない。
故スティーブ・ジョブズの頭の中にあったものが、様々な創意工夫を得て物理空間に現れたものである。
つまり、これは認識が先にあり、そして存在が知覚されたということである。


我々の一般的な感覚では、前者の方が経験的にも馴染深いものであるが、苫米地理論の結論では逆で、正しい方は後者であると考える。

この理解のために、不確定性原理を考えたい。

不確定性原理とは、量子の位置と運動量(速度)の両方を正確に知ることはできないという量子力学における定理である。

不確定性原理を温度の測定を例として考える。
熱いお湯の入ったビーカーに温度計を指したところ、温度計が70℃を指したとき、お湯は70℃ではないというのが、不確定性原理の主張である。
正確には近似的に70℃であるというものだ。

正確に温度測ろうとした場合、お湯の熱はもちろんビーカーや温度計に伝播し、空気中にも逃げていることを加味しなければならない。

量子とは原子より小さいスケールの存在であり、その測定は困難である。

なぜなら、先の温度計もそうであるが、測定する行為自体が、測定する対象に影響を与えてしまうからだ。

ここだけ踏まえると、量子はアプリオリに存在し、私たちの測定技術の低さに基づく結果であると感じるが、そうではない。

専門的になりすぎるので詳細は割愛するが、量子は存在自体が揺らいでおり、そして確率的である。



話を元に戻すが、温度計が70℃を指したとき、それは確かに近似的に70℃であるが、それ以外にも実際に目盛りを読む人間にも差が生じる。
 
例えば、大雑把な学生ならば70℃と読むが、生真面目な学生は70.1℃と読むという具合だ。

大雑把な学生にとってお湯は確かに70℃であり、生真面目な学生にとっては70.1℃である。
 
そしてこれを逆向きにいうのなら、大雑把な学生にとってお湯は70.1℃ではなく、生真面目な学生にとってお湯は70℃ではないということである。

ここに不確定性原理のもうひとつの重要な知見が隠されている。

それは観測できないものは存在しないことと同義であるということである。


先ほどの「存在VS認識」における木の例に立ち返るならば、私たちが木を認識して初めて木の存在を知ることができるということである。
 
これは仮に木が認識できなければ、目の前にあってもその存在を認識することはできないことを意味する。
 
それはあくまでどのように認識するかの違いに過ぎないという結論に基づくが、木と認識できなければ、それはただの棒であり、ただの柱であり、あるいはただの円柱の壁であるということである。

今まで人生の中で木を見たことがないひとに、木を見せれば、それは木という存在を理解できない。

つまり、我々の一般的な感覚として、物理空間に情報空間が包摂しているように感じているが、実際は情報空間に物理空間が包摂されているということである。


なお、この事実を認知科学として落とし込むなら、それはRASによる情報遮断を指す。

RASとはReticular Activating Systemの略であり、日本語では網様体賦活系と訳され、背側縫線核(脳幹)から新皮質にかけて広く伸びている神経系のことである。

RASは五感から拾い上げた膨大な情報を、フィルターする役割であると考えられている。

フィルターを超えたものが、意識にあがって知覚することが可能であり、フィルターで落ちればそれは知覚できず、その人にとっては存在しないことになる。

繰り返しになるが、認識して初めて存在が確認できるということである。

なお、余談であるが、RASは覚醒時に活動し、就寝時には停止することから、認知神経科学ではRASそのものが意識の正体であるとの学説もある。


アントニオ・ダマシオ著 無意識の脳 自己意識の脳 p.300~301
(引用開始)

網様体についての伝統的見解は、1940年代から50年代初めにかけてH・W・マグーン、G・モルッツィらが行った一連の注目すべき実験そのものがあるといってよい。

(中略)

この賦活系の仕事は、大脳皮質を覚醒状態に維持することだった。
 
そしてこの覚醒状態は、当時も今もたいてい意識の同義語として受け取られる。
 
網様体は、それより上部に位置する事実上すべての神経系部位、とりわけ大脳皮質に大きな影響を及ぼした。
 
その影響は大脳半球全域に及び、この影響の比喩的表現として「目覚めさせる」とか「活性化させる」といった言葉がしばしば使われた。
 
網様体賦活系は大脳皮質を覚醒させ、大脳皮質を知覚、思考、意図的行動が可能な作用モード--要するに意識的な状態に--置いた。

(引用終了)

少し結論をいそぐが、私たちが同じ世界を生き、そして同じ世界を観ているという感覚は、実は錯覚である。

私たちは観測できないものやあいまいなものを無条件に切り捨てていることで、近似的にだいたい同じものを観ているという感覚を得る。

この近似的に同じものを観ている、つまりだいたいおおよそ共有出来ていると思われる世界を我々は物理空間と呼んでいるのである。

ここには、『その認識はどこから生まれるのか?』という素朴かつ核心的な問いが残るが、その結論がA次元があり、A次元の高いところに広がった情報空間を通して認識がもたらされ、物理空間を観るということである。

すなわち、物理空間は情報空間の写像であるということである。

写像とは、数学における橋渡しの概念であり、線形代数において写像は、単射、全射、全単射の3つに細分化される。
この場では、情報空間と物理空間における一対一、一対多、多対一、多対多といった対応関係と捉えてほしい。


さて、情報空間と物理空間における連続性の議論を終えると、私たちのゴール達成とは情報空間から物理空間への写像の完了であるということが理解できる。

このとき非常に重要なことは、正しく、かつ細部まできちんと、ゴール側の情報場を創るということである。

もちろんこのとき、自分が存在する情報場も正しく、かつ細部まできちんと認識できていることが望ましい。
 
なぜなら、認識が明確であればあるほど、それは臨場感を持っているということであり、その2つの場における移動がより容易になるからである。

我々がゴール側へ移行するとき、たいていはゴール側の情報場が創り込みが弱いため、移行が難しい。

しかしこの事実は特別悲嘆するものではない。
現状の外側とは定義上観えないものであり、必然的に創り込みが弱くなるからだ。

ただ別の事実として、移動する際そのプロセスにおいて途中別の情報場に移行することになるが、そのとき別の情報が新たに加算される。

つまり、ゴール側の情報場の創り込みが強くなるのである。


いうまでもなく、物理空間は情報空間に包摂され、対応関係があることから、情報空間における場の移動は、ダイレクトに物理空間の移動につながる。

故ルー・タイスの重要なメッセージのひとつに『重要な変化は全て心の中から始まり外へ広がっていく』というものがある。

心の中とは、苫米地理論における情報場の認識である。

そして外へ広がるとは、物理空間を包摂した情報空間における場の移動である。


コーチングのコンテキストで考えても、情報空間における場の移動がゴール達成であるという事実に、これはピタリと整合する。

心の中で明確にゴールを認識することで、きちんと物理が置き換わり、私たちはゴールを達成することができるのである。


ぜひ本書を手に取り、A次元に存在する情報空間に高い臨場感を持って、自由自在に移動してほしい。




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