苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:自由意思

『スピリチュアリズム』
 
本書はスピリチュアリズムに潜む論理矛盾を明らかにし、スピリチュアリズムが蔓延する現代社会に警鐘を鳴らした著書である。
 
江原氏に代表されるスピリチュアルブームは、いったん終焉したかに見えたが、2015年現在水面下で第2次スピリチュアルブームが出版業界を初め広がりつつある。
 
第2次スピリチュアルブームの特徴は、あちら側の世界の論理を量子力学的背景につけ、最もらしくしている点である。
 
量子力学の存在が確率的であるとの主張やトンネル効果といった摩訶不思議な現象は、例え事実であっても我々の直感的な認識から大きくずれる。
 
そのため、確かに量子力学的な現象とスピリチュアリズムが語る世界観に一定の親和性があるように感じられるが、きちんと論旨を辿ると、彼らは結局『脳』について何も理解していないことに気付く。
 
もしかしたら量子力学が語る世界観とその見かけの親和性に囚われ、学術的今後の検討課題の答えを無意識のうちにそうなるように迎合しているかもしれない。


デミング博士がいう通り、『科学は正解を見つけたわけでなはく、誤りを捨ててきた』側面を持つ。

ニュートン力学でさえ、自然界にアプリオリに存在してきたものを掘り出したわけではなく、膨大に想定した仮説と、それらを実際に試した膨大な失敗のうえに、残った方法を採用しているに過ぎない。

つまり、ある条件下において、そう考えたらたまたま上手くいったということである。

そのため、実際光に速度の世界(相対論)になると、運動方程式は成り立たない。

科学の進歩には確かに誤りが付きものであり、それ自体を否定する気は毛頭ないが、それを運用する側は誤りに絡み取られないよう細心の注意が必要である。
 
輪廻転生を信じ、現状よりもっと良くなるという偽りの来世を信じて、今後自殺するといった悲惨な事件があってはならない。
 
少なくとも自分の頭できちんと考え、判断するという最低限の防衛手段は備えておくべきである。
 
私はスピリチュアリズムの最も重い罪は、証明不能な論理を、耳あたりの良い言葉で語り、人を思考停止に追いやることだと考えている。


さて、スピリチュアリズムとは、目には見えず無視できない、人間の生きる意味や目的に関するとても重要な要素があるという信仰に基づく思想と考えている。
 
もともとスピリチュアルという言葉は、『精神の』や『魂の』といった形容詞であり、"spiritual song"は聖歌、" spiritual person"は気高い人と訳されるように、どこかキラキラした厳粛なイメージを包摂している。
 
しかし、本来の英語が持つイメージだけを継承したまま、日本では独自の用語として進化を遂げている。
 
例えば、実際の日本の活用では霊のいる世界があることを信じるという意味合いで使われている。
これはもともとスピリチュアリズムが、交霊術(チャネリング)としてその名を広めたことにも起因しているのだろう。
もちろん日本の文化的背景として、先祖を墓に供養し、位牌に先祖の魂が宿るという、霊を肯定した文化を持ち、それらが取り入れ易い環境が整っていた。
 
そこから転じて、スピリチュアリズムは、心霊主義ともいえる宗教とはまた違った世界観を作り出している。
もちろん霊がいるという前提が、時代とともに、いつの間にか眼に見えない世界への羨望へと変化し、その臨場感が我々の世界の論理に取って変わろうとする。
 
あの世があるかないかは別にして、少なくともこの世のものでないものが、この世の論理と併合しては、システムにどこかしら歪みを与えることは自明である。


しかし、『何故ひとはスピリチュアリズムに魅せられるのか?』という問いから考えていかなければ、それはただの差別となる。
 
その切り口として、まずは神秘体験から考えたい。
 
神秘体験とは、体験した本人にしかわからず、他者からはうかがい知ることができないような、普通起こり得ない現象のことである。
 
例えば、ニルヴァーナがそれにあたる。

ニルヴァーナとは涅槃のことであり、悟りの境地でみる光体験である。
 
ニルヴァーナ自体は、主に瞑想を通じてもたらされ、ヨガ行者の成瀬雅春先生が、格闘家前田日明との共著でもある『男の瞑想学』にて、光体験の存在について言及している。
また、このとき身体に快感が走ることも知られているが、瞑想状態ということに関していえば、アルファ波とシータ波が優位になり、ひとはリラックスモードに突入することが知られている。

そして光体験が、そのリラックス体験の延長戦上に存在し、そこに強烈な体感があっても何ら不思議ではない。


ただここに脳という存在を加味すると、脳にはゲシュタルト能力が存在し、正しいかどうかに関わらず、ただ辻褄が合うように、現象に対して必ず何らかの意味付け行う。

つまり、光体験自体はただの現象であり、それ自体に意味があるわけではなく、むしろ脳が後付けで辻褄が合うよう意味をでっちあげる。
 
脳のゲシュタルト能力によって、我々は自我を担保している以上、生きている限り、脳は無作為な情報からゲシュタルトを生み出し続ける以上仕方のないことである。
 
そのため辻褄の合う論理として、眼に観えないスピリチュアリズムの世界の論理を、自身の高揚感も相まって簡単に受け入れてしまうことがあっても不思議ではない。

 
また、これに関連して、スピリチュアリズムがどのようにカルトへと変貌するのかも、同時に押さえたい。
 
苫米地英人著 洗脳原論 p.31~33
(引用開始)
 
それにしても、洗脳というテクニックで無意識を操ることを覚えた「教祖」という存在とは何なのか。
 
人の心には、決して素人が素手で触れてはいけない意識の闇の部分がある。
 
それを本書ではダークネス・バウンダリー(darkness boundary)、すなわち闇の境界線と便宜的に呼ぶことにする。
 
フロイトは抑圧が「無意識」と「前意識」(意識)の体系の境にある表象について行われる過程であるとしているが、まさにこの心的外傷が、記憶の淵に抑え込まれて抑圧されるその意識のそこの境界が、私のいうダークネス・バウンダリーである。
 
(中略)
 
人物をモチベーション別に分類してみよう。
 
意識の深淵を垣間見て恐くなり、もうこれ以上関わりなくないと思った人は、そこで止めてしまう。
 
人のために尽くそうという高邁な精神は持ち合わせていないが、これはビジネスになるぞと思った人は、自己啓発セミナーやマルチ商法の道に走る。
 
それとは異なって知識欲があり、人の役に立ちたいと思う人は、臨床家になる。そこに宗教的霊性が加わると、聖人となる。
 
しかし宗教的霊性だけを重んじ、現実世界での高尚な精神がともなわない人は、闇のパワーの魅力にとり憑かれ、カルトの教祖となる。
 
その教義は個人の精神を導くという命題を忘れ、言葉面のみの地球や人類の救済、超能力の賞賛に徹したものになる。
 
(引用終了)


光体験とダークネス・バウンダリーを超えることは、圧倒的な体感を伴うという意味で、似たような意味合いを持つ。

それが仮に同じものであると仮定した場合、光体験のような体験をする技術は巷にはびこっており、それらのテクニックやノウハウは意外と簡単に手に入る。

その後、繰り返しになるが、強烈な神秘体験をしたときに、我々がどのような意味付けをするかは個人の特性と判断に委ねられることになる。
 
これらの事実をきちんと知っていれば、安易な意味付けがなされることはないだろう。

なぜなら、光体験とはただの現象であるからだ。

 
他にもチャネリングと呼ばれるものも存在する。
 
チャネリングとは、スピリチュアリズムの論理として取り上げれば、高次元の自分と接続することで、今の問題への解決策や啓示をもらう行為である。
 
もちろんチャネリングもリラックス音源を流しながら、瞑想下で行われるようだが、瞑想事態に前頭前野を活性化させる効果あり、今の不安などの情動が消え、実際にスッキリする。

なので、最近Googleを初めとする世界のエリート達が瞑想を取り入れているのは事実である。
 
つまり、それは特に高次元の自分ではなく、単に抽象度があがったといった方が適切である。


このチャネリングにおいて、実際に声が聞こえるという経験もあるようである。
 
結論を先にいえば、頭のなかで声が聞こえるということは充分あり得る。
 
それが右脳の側頭葉部分に存在する、左脳におけるウェルニッケ野の該当する箇所の存在である。
 
ジュリアン・ジェインズ著 神々の沈黙 p.136~137
(引用開始)
 
これらの実験は、側頭葉にいずれかの部分の損傷が原因での癲癇と診断された約七〇人の患者を対象に行われた。
 
損傷した脳の組織を摘出する手術として、側頭部の表面の様々な個所を微弱な電流で刺激した。
 
(中略)
 
ここで代表的な実験結果をいくつか紹介する。
 
この領域に刺激を受けたとき、症例七の二〇歳の大学生はこう叫んだ。
 
「また声が聞こえます。現実との境がわからなくなっているような感じです。耳の中でハミングが聞こえ、わずかですけれど、警告されているような気がします」。
 
そしてもう一度刺激を与えると、「さっきと同じです。また現実から引き離されそうになりました」。
 
尋ねてみると、声が何をいっているのかは理解できなかったと答えた。
 
(引用終了)
 
 
この著書では、右脳にも言語野が存在し、それがかつての文明における神の声の正体であると言及している。
 
右半球側頭葉後方付近を刺激することで、頭の中で別人から声が聞こえたとの事例は、瞑想における何らかの際、この部分が活性化することで声が聞こえたという可能性は充分あり得ることである。
 
瞑想によって脳に声が聞こえるという因果関係自体は、私の知るところでは証明されたわけでない。
しかし今後の研究が進むにつれて、実際に起こっている以上は、何かしらのデータが出てくると思われる。

まだ結果が出ていないことと、それをスピリチュアリズムの論理につなげることは全く違うことである。
 
頭の中で声が聞こえて来ることでさえ、特別不思議なことではない。
 

私個人、スピリチュアリズムに否定的な立場であることは事実だが、日本国憲法第20条で信教の自由が認められている以上、最後は個人の選択に委ねられるべきであると考えている。

そしてスピリチュアリズムの見た目だけに羨望の眼を向け、入り込んでいくことは論外だが、例えば医師のような患者の死と常に隣り合せに存在し、精神を極限まですり減らし、頑張ることに疲れ、何の活力も湧いてこない人が、スピリチュアリズムを求めてしまうケースは分けて考えるべきである。

こちらの問題は根が深い。
 
事実神や宗教と言った、超常的な論理を受け入れることで、人のストレス値が下がるというデータもある。
 
しかしそれを「穏やか」とは言わないと考えている。

スピノザの「エチカ」にて、『苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象した途端、苦悩であることをやめる』とあるが、苦悩の明晰判明な表象がどちらに向くかは極めて重要な分岐である。

自分ではもう何も判断が出来ず、そういったものの答えを、神や高次元世界との接続などという疑似科学に救いを求めてしまうこと全てを私は否定できない。
 
しかし同時に、それが正しい選択とも思えない。

自らの自由意思を放棄しかけた彼らが、再び自由意思を抱きかかえてもらうには、どうようにすることが最も良い選択となり得るのだろうか。
 
それは今後の検討課題である。


ヴィクトール・E・フランクル著 夜と霧 p.131
(引用開始)
 
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみの責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。

人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙でたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

だれもそのひとから苦しみを取り除くことはできない。

この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
 
(引用終了)

 
人類の歩みとは、ひとの尊厳と自由意思を獲得してきた歴史である。

世界史における革命には必ず流血を挟み、それらを勝ち取ってきた。
民主主義もそのひとつである。 

自由意思を他に絡められることなく、最後まで大事に抱きかかえる、そんな泥臭いメンタリティーが必要であると考える。 

自分の最後の領域を、容易く他所へ受け渡してはならない。


ぜひ本書を手に取り、自らを拠りどころとしたあり方を模索してほしい。 


















『ドクター苫米地の新福音書』

本書は自由意思とは何かという壮大なテーマから「自分らしく生きる」ことに言及した著書である。 

自由意思という概念を、機能脳科学、現代数学、現代物理学、現代分析哲学、計算機科学等の学問から一望した内容は、壮観の一言である。
  


自由意思とは何かについて言及するには、自我についての定義が必要である。

なぜなら自由意思とは、広辞苑にて「他から束縛されず自らの責任において決定する意思」と定義されるように、自我のうちから出てくるものであるからだ。

いうまでもなく「自分らしさ」も、自我や自由意思から要請される。

私たちが「自我」という対象を考えるとき、それは往々にして意識のことを指す。

これは、『「わたし」とは何か?』というおそらく多感な子供時代に誰もが考えたであろう極めて普遍的な問いである。

我々は今ここにいる意識のことを、デカルトが方法序説で書き記したように、疑いようのない絶対的な存在であると考える。
なぜなら、意識について考えれば考えるほど、それに比例して意識するという行為が浮き彫りになるからである。

しかし、これは冷静に考えるととても不思議な論理であることに気付く。

なぜなら、「意識とは何か」について「意識」で考えているからである。

例えるなら、精神科医が自分の精神状態を診断し、精神異常の有無を判断しているに等しい。

普通精神異常を自分で知覚できないことは、想像に難くない。

今このブログに映る視覚情報も、マウスに触れる触覚情報も、PCの冷却ファンが放つ聴覚情報も、今ここにある自我を経験的に確からしめるように思えるが、それは自我のアプリオリ証明となる明確な根拠にはなりえない。

なぜなら、意識がない状態をどのように意識するのかという本質的な自己矛盾を持つからである。
例えば頭が留守となる場合があることを我々は経験的に知っており、それは無意識状態である。

無意識を意識することはできない。


さて、自我を定義するにあたって、認知神経科学の観点から考える。

先に結論を述べれば、自我は存在しないという結果が、最近の認知神経科学の研究では揃いつつある。

マイケル・S・ガザニガ著 〈わたし〉はどこにあるのか p.160~161

(引用開始)

意識の時間差に25年も前から繰り返し報告されてきた。

カルフォルニア大学サンフランシスコ校の生理学者ベンジャミン・リベットは、神経外科手術の最中、覚醒している患者の脳に刺激を与えてみた。

そこは手を担当する領域だったにも関わらず、患者が手に感覚を覚えるまでに時間差があった。

その後の実験では、行動開始に関わる脳の活動が、実際の行動の0.5秒前に起こってことがわかったが、これは当然だろう。

驚いたのは、被験者が行動を言度する0.3秒前から、脳内では関連する活動がすでに高まっていたことだ。

(中略)


2008年、ジョン=ディラン・ヘインズを中心とする研究グループは、こうした最新技術を活用してリベットの実験をさらに発展させた。

そしてある傾向が生じるときは、それが意識にのぼる10秒も前から脳にコード化されていることを突き止めたのだ。

脳はその持ち主が意識する前から活動していた。

それどころか、脳のスキャン画像から次の行動が予測できてしまう。これは衝撃的だ。

本人がその欲求を意識する前から、行動が無意識に始まっているのだとすれば、意志の原因としての意識の役割はなくなり、行動を起こそうとする意識的な意志はただの幻想となる。 

(引用終了)

※ジョン=ディラン・ヘインズらの研究参照はこちらから


私たちの頭の中の思考、五感を通して得られる情報は全て、脳の中の電気信号でやり取りされる。
 

このとき電気信号のやり取りを単純化するならば、入力⇒脳(演算)⇒出力という3層で表せる。


ここでいう入力とは五感から得られる情報や感情であり、出力とは実際の思考や行動のことを指す。


我々が意識と呼ぶのは、上引用からも理解できるように出力にカテゴライズされるものでる。


余談であるが、この事実はジュリアン・ジェインンズのバイキャメラルマインド(二分心)とも符合する。


脳が大脳辺縁系、新皮質と進化とともに徐々に拡大し、その処理能力が向上していった歴史のなかで、意識も生まれきたのならば、出力結果であることにも確かに納得がいく。


なお、バイキャメラルマインドとは、意識は先天的に備わっていたものではなく、進化の過程で後から生まれたものであるという仮説である。


意識が出力結果であるならば、我々の自由意思は何処にあるのかという疑問が残る。

そして、これらの実験結果だけを素直に踏まえるならば、我々に自由意思はないといえる。


すなわち、我々の意識とは、脳という計算機から投影されたホログラムのようなものであり、ホログラムが自分に実体があると錯覚しているにすぎないということである。



では我々は自由意思をどのように捉えるべきだろうか。


認知神経科学の知見を用いて、もう一度自我について考たい。
 

ここでは、左脳の機能に着目する。


左脳とは主に計算や言語・発話といった知的行動が専門であると考えられている。

他にも重要な機能として、統一がとれた対象への意味付けを行う。


この事実をもう少し深掘りするために、ガザニガ教授が実際に行った分離脳患者の事例を取り上げる。
 

分離脳患者とは、左脳と右脳をつなぐ脳梁が切断された患者である。

例えば、てんかんを持つ患者は、最後の治療法として外科的に脳梁を切断することがある。

てんかんとは、突然発生する脳内の電気的興奮により、発作を繰り返す慢性的な脳疾患である。
このとき、脳内の電気的興奮が発作の原因であるから、物理的に電気信号が通る個所を切断することで、発作の発生を抑える。

この治療法は事実効果があり、発作自体はほぼなくなる。
そして、患者も特に後遺症がなく、手術前とほとんど生活も変わらない。
 

しかし、このとき分離脳患者は物理的に脳梁を切断されたことで、左脳と右脳がそれぞれ独立し、情報のやり取りがないことは自明である。

そのため、左脳は右半身を、右脳は左半身をコントロールしているが、左目で観たもの(右脳で知覚)は何かと分離脳患者に問うと、彼らは何も観えないと答えるという奇妙な現象が起こる。 


それを踏まえ、今度は右視野(左脳)には、ニワトリの足の写真を、左視野(右脳)には雪景色の写真を見せる。

続いて、一連の写真の中から前の写真と関連のあるものを左右の視野にそれぞれ選んでもらう。

左手(右脳)は雪景色に対応するショベルを選び、右手(左脳)はニワトリを指した。

その後、言語野を持つ左脳に、左手はなぜショベルの写真を持っているのかと問うと、平然と「ニワトリ小屋を掃除するのにショベルが必要だ」と答えたのである。 


回答内容に違和感があることもそうだが、ここでもう一度左脳と右脳は情報を交換していないことを思い出したい。

つまり、左脳は右脳が何を見て、ショベルを選んだのか知らないのである。 

そこで今現代左脳が持っているニワトリの足に関連する写真を選ぶという情報と、左手に持つショベルという全く関連性のない情報を、非常にクリエイティブに統合し、意味付けを行ったのである。
 

この意味付けにおいて、その意味付けが正しいかどうかは特に問題ではない。
あくまで構造として統合化され、辻褄が合っているかどうかが争点である。

これが左脳の意味付けの機能である。


この機能は、すべからく我々にも宿っており、今こうしている間にも左脳は外部から情報を受け取り、意味付けを行っている。
我々は生得的にアプリオリを好むのは、左脳のせいかもしれない。

この意味付けには、いうまでもなく個人個人によってバラつきが生まれる。

脳の活動を観るだけで、「指紋のように」個人を特定することができるという研究結果もある以上、それはクセという言う方が適切である。


このクセには特に主体性があるわけではなく、ただ演算する方向性が決まっているアルゴリズムである。


これは脳が逐次五感から手に入れた情報に重みづけをすることで、重要な情報を意識のうえにあげるという、我々にとって馴染み深い評価関数(重要性関数)という自我の定義にも合致する。


つまり自我とは、主体性のないただのアルゴリズムであると定義できる。

この神経ネットワークにおける電気信号のやり取りのパターンが自我である。

そして左脳の意味付け機能は、受け取った情報以上の計算は出来ない。


この事実を知ったとき、自由意思についてひとつの光明が差す。


それは、どんな情報を自分に入力するかを選択することである。


もちろん自分に何を持って入力する情報を決めるかと聞かれれば、それはゴールに重なるかどうかである。

ゴールが決まり、出力したい計算結果が明確になるから、入力する情報をそれにそって変えることができる。

これを裏返せば、何もゴールがなければ、受け取る情報以上の計算が出来ない以上、一貫性のないバラバラな結果が出力されるのみである。

ゲーデルの不完全性定理発見以降、どんな系にも必ず矛盾が内在することがわかっており、それは自我というアルゴリズムでさえ例外ではない。

グレゴリー・J・チャイティン著 知の限界 p.3
(引用開始)

手短にいうと、ゲーデルは不完全性を、チューリングは計算不能性を、そして私はランダム性を発見しました。


(引用終了)


ゲーデルの不完全性だけでなく、チューリングの計算不能性も、チャイティンのランダム性も、全て自己言及から導き出されるように、自由意思を行使するにもまずは自身について知る、すなわち自己言及することから始まるように思う。


本書の言葉を借りれば、それがシステムSを超えることだと考える。


神が消え、情報空間でのエントロピーが下がり、今日という1日が延々と続くなかで、ますます重要性を増すのが自由意思である。

それはすなわち、『どこへ行きたいのか?』ということである。
ゴール設定こそが、現代を生きる我々の福音となることを教えてくれる。


ぜひ本書を手に取り、自由意思を獲得して、壮大なグランドデザインを描いてほしい。


 








ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


先日大阪で藤本コーチと開催したセミナーについて非常にうれしいご感想をいただけました!

といういのも、このセミナーには、なんと苫米地式認定コーチである、斎藤貴志コーチにもお越しいただきました!

彼は島根在住のコーチですが、島根からわざわざ来てくれました。
エフィカシーが高いです!

斎藤貴志 写真
@斎藤貴志コーチ(こちらから写真を拝借


そんな彼が彼のブログにて、私の担当講座についての振り返りを行っていくれています!

私の講座より、上手くまとまっています!笑


彼がブログで振り返ってくれているように、コーチングにおいて重要なのは、ゴール設定です。

そして彼の振り返りのタイトル通り、ゴール設定が私たちの生きる力であり、原動力です。

フランクルが主張するトリックとは、私たちのコーチング理論におけるゴール設定を意味します。

ゴールを設定することで、私たちの認知が変わり、そして生き抜き、ゴールを達成することに成功します!


ゴール設定の深淵さを感じるばかりです。

私たちにおけるゴール設定とは、数学における公理のような存在であり、公理があってそのあとの定理が成立します。

公理なくして定理は成り立たないのです。

ゴールなくして、それを達成させる最適な方法もないのです。

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


コーチング通じて、自分と本気で向き合うと、自分の生涯をかけていいような、そんな壮大かつ偉大なるテーマに出会います。

それを実現した社会の幸福値は、今まで以上のさらに高いところにあがっていき、そして横の誰かも笑顔でハッピーな優しい世界です。

そんな社会の実現に向け、それ自体が自分のゴールであることもそうですが、自身を献身的に世界に捧げます。

世界の豊かさは、世界のどこかで生まれた付加価値であることは間違いありませんが、高邁なる理想が、気づけば自分のことを顧みない無理なゴールとなっています。

社会的情動という言葉を聞いたとき、ついつい周りの笑顔を考え、自分の笑顔を忘れる悲しい現実に直面します。


しかし冷静に考えればわかるように、自分も笑顔で、他人も笑顔であるから素晴らしく、他人だけが笑顔な世界とは、言葉を選ばなければ、ただの虚像であり偽善です。

もちろん自身の献身的な態度自体は、とても尊いことであり、誰かのために動くことは、自分のために動く以上にパワーが溢れる行為です。

しかし往々にして献身的な態度は、自分を摩耗させ、いつの間にかゴール達成を減速させるホメオスタシスの抵抗にすり替えられます。


このときキーワードとなるのが、自分の幸福です。

一見抽象度が低く感じる基準が、実は自分を突き動かす原動力であると気づきます。

自分が幸福になっていいという単純なことでさえ、忘れてしまうのです。


自分の人生を捧げていいと思えるテーマは、往々にして社会の機能を果たす素晴らしいゴールです。

ですが、そこで自分の笑顔を忘れてしまっては本末転倒です。


ゴールを達成した世界には、すべからず自分も含まれます。

自分が楽しく、周りも楽しいことが必要であり、それがゴール達成までの、大きな継続力につながります!

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※どこまでいってもみんな楽しく!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


シルバーウィークもあっという間に過ぎ去り、今日から仕事が始まるという方も多いのではと推測します!

今年のシルバーウィークはカレンダー通りなら、5日間の大型連休であり、ちなみに次の大型連休は11年後だそうです!

割とどうでもよい、小話です。


さて、シルバーウィークといえば、藤本和博コーチとのセミナー@大阪でした!


本セミナーのテーマは、いわずと知れたアウシュヴィッツ収容所ですが、アウシュヴィッツ収容所と現在に住む私たちを比較すると、その相関の多さに驚かされます。

もちろん安易な比較は論外ですが、収容所内で行われた残虐非道な行為の数々を受けた人々が壊れていく様は、現在にも通じるものが多々あります。

もちろん通じるだけではNGで、そこからきちんと何かを獲得しなければなりません。


過去の学者が観れば、それらは往々にしてただの事例研究になりますが、コーチングを知る私たちからすれば、とても良いケーススタディーです。

フランクルは、過酷な収容所内で、見事にコーチングに通ずるマインド操作で、生き抜きます。

ただフランクル自身の主張は確かに王道のど真中をいくものですが、少し自己啓発気味に偏っています。

そのあたりはきちんと最新の認知神経科学の観点から補足しています。


また、その過酷な事例のなかには、一番コアな『ひとの自由意思』についても教えてくれます。

ひとの自由意思とは、何者にも侵犯されない、最後の領域です。

そこに踏み入れられるのは、自分の除いて他にありません。


であるならば、私たちが他人に良くなってほしいと心の底から願う、とても純真で無垢な願いでさえ、容赦なく切り捨てられます。

アウシュヴィッツのような過酷な領域のなかでも、侵犯されないのだから当然です。

私たちはひとに良くなってほしいと願うとき、せいぜい信じて待つことくらいしかできないのです。


しかし、とてもパラドキシカルですが、自分の願いが届かないことを心の底から知ったとき、初めて相手にその願いは伝わります。

そしてそのとき、むくりと人は立ち上がるのです!

このとき、一人一宇宙という深淵さをいつも感じさせられます。


改めまして、藤本コーチ、ならびに参加者の皆さま、ありがとうございました!

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