苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:縁起

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ひょんなことからたまたま思い出したので、少し自分の昔話をシェアします。

表題の通り、実を言うと、私はとても自己否定の強い人間でした。

学生のときから意識高い系というとあれですが、色々なお勉強をたくさんしたことと、色々な活動を通じて経験したことを、大きな自負にしてきましたが、その自負は本当に自分の底から湧き上がった自信ではなく、ただ自分を大きく見せたい虚栄心から来たものです。


学びがあったならいいじゃないと感じるかもしれませんが、結局自分に肯定感がないと色々なところでこじらせます。

例えば、学んでも学んでもまだまだ自分の至らないところばかりが眼に入り、自分に厳しく接するという大義の下、「なんでこれくらいできないんだ!」と毎日毎日ネガティブなセルフトークを繰り返していました。

他にも自分の努力に対し、自分をきちんと肯定することができなかったので、あまり努力していないと思われる他人を見つけては、あいつは「何もしていない!」と心のなかで扱き下ろしていました。

今思うととても嫌な人間です。

ただ当時の自分からしてみると、藻掻きに藻掻いていたし、そこから抜け出すために毎日毎日必死でした。


こんな状態だと自分の強みも強みとは思えません。

「頭いいよね!」という何気ない褒め言葉でさえ、「何いってんの?」と 照れるどころか心の中で真顔で反論します。

エフィカシーが低いと、自分だけでなく周りにも非常に迷惑です


さて、そんな自己肯定感のかけらもない状態でしたが、今はもちろんコーチングを通じて、そんな自分を抜け出しています。

その過程に色々なひとの助けがあったことは事実ですし、自分ひとりで上手くやったなどと口が裂けてもいえませんが、ひとの変革の第一歩として、そんな自分を辞めようと思ったのは紛れもなく自分です。

私個人劣等感から導かれた必死さの裏側へ隠れてしまって、一切見向きもしようと思わなかった真実を、受け入れることは非常に苦しかったし、これまでの恥ずかしい自分を全て捨ててやりたいという気持ちに何度も何度もなりましたが、そこを受け止めることで大きく上のステージにあがることができました。

半分あきらめにも似たような感覚のもと、そこから曇りない眼で純粋に観えた風景は全ては自分の縁によるものだという事実です。


つまり、自分が自己肯定感のかけらもなく、毎日死に物狂いで取り組んでいたのは、実は自分が好きで望んで、その状態に留まっていたということです。

当時の自分にこの言葉を伝えても、「そんなことはない!」と全く響かないでしょうが、仮に本当に抜け出したいのなら、「頭いいね!」ときちんとひとから評価されたとき、自分はここまで来たのかと何処かで納得するはずです。

それを自分の主観で、そうではないと決めつけて、聞く耳を全く持たなかったのは、まさしくスコトーマの原理です。

観たいものだけを観ていたという動かぬ証拠です。


そして自己否定をやめたとき、実は自己肯定感を高めることも、自信は持ったらいいのも、エフィカシーは上げればいいというのも、ようやくその意味が理解できます。

なぜなら、自己否定をやめたように、それらもただの選択だからです。


結局は自分が無意識レベルで何を望むかであって、何を確信するかで、全て必然的に決まるということです。


自己否定は別にしなくていい。

まずはそんな自分を受け入れることから始めましょう。 

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


誰しもすべからく自分について見つめたとき、『自分らしさ』というものが気になります。

私たちは歳を重ねるごとに、消費者から生産者へとその立場を変えていくなかで、生産者としての機能を探す一要素として、自分らしさとはとても魅力的な指針です。

なぜなら、砂漠の中でオアシスを行き当たりばったりで見つけることよりも、何かしら方向性をもってオアシスを探す方がはるかに早く見つかるからです。


自分らしさとは、ゴールに向かっていくなかでの重要なファクターです。

それが自分のゴール設定に関わり、オリジナリティーであり、社会的機能にも直結します。

もちろん内から湧き出るものである以上、Want-toであることはいうまでもありません!


私たちは往々にして淡い期待感を持ちながら未だ見ぬ自分らしさの到来を、今か今かと待ちますが、結論から言えば、残念ながら私たちが羨望の眼差しを向けるようなアプリオリなる自分らしさなどは何処にもありません。

もしあるとするならば、それはただの錯覚であり幻想です。


私たちはアプリオリなる不動点から演繹的に全てが決定している時代を生きているわけではなく、全てが流動的に揺れ動きながら産まれる2者間以上の関係性が重要な時代を生きています。 

そうであるならば、求められた機能に対して、どうのようにすることが自分にとって一番心地良いかが争点となるでしょう。

それを見つける方法は至極簡単で、求められた機能をのみを見つめて、淡々とそれをこなしていくことです。

淡々とこなして、一番自分がほっとするやりやすい方法を見つけるということです。


このとき今すでに自分の持っている情報も、必要なものとそうでないものが存在します。

いうまでもなく、何が必要で、何が不必要かはわかりません。

基本的に総入れ替えをするくらいの前提の方がスムーズです。

自分のなかの情報を洗いざらい入れ替えてみて、何度入れ替えても残る物が、もしかしたら私たちが欲しいと願う自分らしさなのかもしれません。


つまるところ、自分らしさとは、ただの結果論ということです。

何かをしたら自分らしさが見つかるわけでも、アプリオリに存在しているものではありません。

自分らしさとは、一番しっくりくるただの関係性です。

自分の中の情報をどんどん動かしていきましょう!


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 ※関係性とは情報空間でのダイナミックな移動です!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ゴール設定という言葉を、私たちは往々にして目標という意味として使います。

もちろん日本語としての意味は正解ですが、コーチングとしては不正解です。

何故なら目標という言葉には、『到達可能な』というニュアンスが含まれており、それは現状の内側を表しています。

そしていうまでもなく、サッカーのワールドカップで1位を目指して4位になることがあっても、4位を目指して1位になることが出来ないように、ゴール以上の結果を出すことは普通は不可能な事象です。

またゴールがなければ、私たちは何処へも行くことができません。


という前提で考えたとき、ゴール設定は『生き方』と言い換えた方が訳として適切な気がします。

ただ生き方とだけいうとぼんやりしますが、『自分だけの』とか『生涯にわたって』と形容するともう少しクッキリするでしょう。

自分の生き方を自分で考え、自分で決断し行動するとなると、ゴール設定の重要性がより深く落ちてきます。


仏教哲学からみれば、自分の生き方という言葉で言い換えたとき、それは中観といえると思います。

中観とは全ては空であることを理解し、そこに機能を持たせることですが、空に機能を持たせて歩んでいく姿はまさに生き方そのものです。

全ての事象が縁起によるネットワークの紡ぎ目で、眼の前の出来事全てがただの紡ぎ目であるとだけ理解していると、人生が無意味なただの傍観に収まります。

かといって機能だけに着目すれば、それは金融資本主義の奴隷に成り果てます。

中観とはその間を取ることです。

両方の眼を獲得することで、始めて観える風景が存在します。

空と仮との無限に存在するグレーゾーンの中から、どこに自分のポジショニングを置くかが、ポジジョンを選ぶことが中観を生きていくということです。


現状の外側の生き方。

こういういい方をするならば、よりビビッドに私たちは自分の人生に向き合えます。

こういういい方をするならば、他人ではなく人生の主役は自分であるという当然の事実に納得します。


そうしてようやく自分の足で立ち、自分の人生を歩きはじめることが可能です。

自分の人生とは今は観えないステータス・クオの外側です。

自分できちんと選んだなら、そこに初めて自己責任を持つことができ、自分らしい人生を初めて謳歌することができるでしょう。

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※最初のスタートはいつもここから!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


あまりこの手の内容について正直ブログで公開するつもりはなかったですが、自分のWant-toに従ったまま「えい、やー!」っと、先日のGW特別企画『成功への遠隔縁起書き換え』を行ったので、これを機会に内部表現の書き換えとはどういうものかを、少しお話したいと思います。


そもそも内部表現とは何でしょう?

簡単に説明するならば、自分の観ている世界そのものを指しています。

例えば眼の前の机の上にリンゴがあったとき、そのリンゴは誰にとっても同じリンゴだといえるでしょうか?

明らかに同じリンゴです。ですが、実際は違います。

赤色に観える人もいれば、赤黒に観える人もいれば、深紅に観える人もいます。

そもそも何をもって同じリンゴであると担保するのでしょうか?

色?形?それとも手触り?

突き詰めれば突き詰めるほど、定義できないことに気づきます。

そして誰も同じリンゴを見ていないということに行きつきます。

これが内部表現の考え方です。


この内部表現をかつての心理学的なパラダイムで捉えるなら、自我と言ってもいいかなと思います。

より直接的な言い方をすれば、私たちは自我というフィルターを通して世界を捉えているということです。


そして、ここで思い出したいのはスコトーマの原理です。

私たちは自分のほしいと思った情報しか観ることはなく、それはいわばゴールに基づいた情報です。

つまり、ゴール=自我であり、観えるものが変わったとは、ゴールが変わったとか、自我が書き換わったと表現することができるでしょう。

自我とはもちろん苫米地理論における縁起のことであり、ネットワークの紡ぎ目です。


というパラダイムで考えたとき、内部表現の書き換えの本質とは何かといえば、言い方が良いか悪いかは別にして率直に『殺し合い』という表現が適切です。

古い自我、不要な自我を殺すことで、新しい自我、必要な自我を構築するということです。

なので、書き換えを通じて変わることが、いわば当たり前であり、別人になっているといっても大げさではありません。

それは、これらのフィードバックが全てを物語っています。


ここだけ聞くと、内部表現の書き換えに何ともいえない甘美な魅力を感じるとともに、「なんて便利な技術なんだ!」と思います。

実際便利な技術ですが、それ以上にリスクも多々あります。

殺し合いという言葉がまさにその所以であり、当然自分が返り討ちにあうという可能性を秘めています。

可愛らしくいえば、ミイラ取りがミイラになるようなイメージです。

なので、無料であれ、有料であれ、私を含む書き換えを行う側は常に命がけです。
油断すれば、逆にやられてしまいます。

気功という抽象度でみれば、過去の道家の気功師たちが、施術後死んでしまった例も多々あります。


つまり書き換えには上手い下手があり、上手ければより強力かつ正確に書き換えることが可能です。

技術自体が強力であるからこそ、書き換えを通じて出来ることが増えるからこそ、自分により堅硬な手錠をかけ、より窮屈な牢屋に入るべきだと考えています。

実際私のスタンスを述べれば、本当に必要な場合でなければ、伝家の宝刀は抜きません。


話は変わりますが、苫米地式コーチングの受講料は高すぎると揶揄するひとがいますが、誤解を恐れずにいうならば、もう少し抽象度をあげてというのが正直な回答です。

情報空間にきちんとアクセスできるようになると、抽象度の高い世界では、全ては機能の交換だという風景が観えてきます。

要するに報酬の額以上のことを、眼に見えないところでやっているということです。


話を戻しますが、内部表現書き換えとは、そういう世界だと私は思っています。

見た目の煌びやかで華やかな風景とは裏腹に、その世界は泥臭く、命を懸けた綱渡りです。


なので、私は『ゴールは何ですか?』と聞き続けます。

『本当にそこへ行きたいですか?』と聞き続けます。

この質問にきちんと回答できるひとには、大きな福音となるでしょう。

そうでないのなら、お互い待っているのは地獄です。


少し怖いことを並べましたが、社会に機能を果たすとは、大きなリスクと責任を持つものです。

そして社会に機能を果たすことを決めたとき、それらをきちんと真正面から受け止めるべきものだと思います!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


この度はGWに特別企画として『成功への遠隔縁起書き換え』を、5月3~5日の3日間にわたって行い、あまりの好評ぶりに追加日程を急遽設けました!

先日までたくさんのフィードバックをいただき、掲載の許可をいただけたものから、そのフィードバックの共有をおこなっています!

フィードバック自体はまだまだありますが、個人的にそろそろフィードバックへの返信の方へ集中したいので、このあたりでフィードバックの掲載は終わりにしようと思います。

フィードバックはこちらからご参照ください。



企画に参加された方々も、すでに圧倒的な成果を出しており、ゴールへなかなか進めなかったという過去の事実もなんのその、もうすでにゴールへ進みだして、これまで超えることがなかなか出来なかった壁を、いとも簡単に乗り越えられてしまったといううれしい声も多々いただいています!

この企画自体は、反響がさらに大きくなれば、今後また何かの機会に行うかもしれません。

まだ未定ですが!苦笑


さて、これだけでも十分うれしく、圧倒的な成果ですが、それと同じだけ残念なこともありました。

それは『フィードバックをきちんと返すこと』という参加条件を課しているにもかからず、それが全く出来ない方がいたことです。

全体としてわずかな割合ですが、一人でも出たことは非常に残念です。


フィードバックなんて書くのがめんどくさい!

俺は客で神様だから、書くか書かないかは自分の勝手!

どうせブログで紹介したいだけだろ?



まだフィードバックがなかなかまとまりきらずに書けていない人や現在作成中の人、寝落ちしてしまって書くことがわからないという人を除けば、フィードバックを返さない要因はこんな感じでしょうか?

もしそうなら、残念ながらどれも抽象度が低いと言わざるを得ません。

この抽象度の低い意見に関してもちろん色々指摘したいことはありますが、イエスも言う通り、他人のことを言う前に、まずは自分の眼の梁をとるべきです。


少し説明不足の点もあったかものなので、そこはきちんと改めて解説を加えます。


まずフィードバックのコンセプトとは、大きく意識化と外部化の2つの側面が存在します。

意識化とは、その言葉の通りで、意識の上に変化をあげることを指しています。

ご存知のように、私たちの意識は非常にあいまいであり、いい加減です。

なので、過去と現在の差分も当然クッキリ捉えるのではなく、非常にあいまいに繋がって、あたかも整合性のとれたように錯覚させます。

例えば、飲み屋で楽しく友達と会話している状況を思い浮かべてみましょう。

友達に色々話しているうちに、自分に発する言葉の中で、自分ってこんなこと考えてたのかと妙に納得するときです。

その発せられた言葉は、明らかに自分の口からですが、自分はそのことを考えていた自覚は一切ありません。

意識があいまいでいい加減であるのなら、私たちは例外なく、ホメオスタシスの影響を受けるので、変化を変化と自覚することなく、元の状態に戻っていきます。

私たちは基準があるから、変化を自覚できるという当たり前のパラダイムを思い出したいところです。


また、外部化ですが、これは強化に当たります。

意識するだけでも確かに効果はありますが、どうせならそれを強化して自分に落としたいところです。

その方が効果は高まります。

外部化とは自分の五感から発した情報を別の五感で認識し直すという行為です。

これは非常に強力な技術で、同じ経験でもそのインパクトが増幅され、例えば物を記憶するときなどに使われます。

そしてこれは私が好きでやっていることですが、送られてきたフィードバックには必ず中身に沿った内容を返信しています。

文章の中に、ここの理解がもっと深まればいいというポイントはあるので、そこに関しての返信がメインです。

そうすることで、より外部化の効果が高まります。


つまり、フィードバックは誰のためにするかといえば、自分のためにするものです。

そして言うまでもなく、ゴールがある人限定の企画なので、これは当然必要なステップだと思っています。

これは私の都合ですが、フィードバック自体のなかで、好転反応の有無を確かめるという目的もあります。

好転反応は比較的軽度なものが多いですが、人によっては3日間くらい身体を動かすことが辛いという人もいます。

そういった方へは別でアプローチが必要だと思っています。

対面セッションなら、眼の前にいるのでそれを掴むことはできますが、如何せん参加者はみな、どこか別のところにいます。

顔も住所も知らないので(知ったところでどうしようもないですが)、メールでのフィードバックだけが頼りです。

それがされない以上、それ以上のことは私個人責任を持てません。


以上が、私がフィードバックを求める理由です。

以上の説明を聞いてもなお、フィードバックがない場合は、そもそも本気のレベルを疑います。

私個人責任を持てないこともそうですが、ゴールを達成する気もない人にコストをかけること自体がそもそもバカバカしいので、今後同じ類の企画があった場合も、参加は一切認めないでおこうと思います。


こういう話は私個人あまり好きではないので、このあたりでそろそろ終りにしますが、最低限約束を守るというスタンスはきちんと守ってもらいたいと思います。


存外大人になりきれない大人がたくさんいる平和な日本ですが、無邪気なままでは観ないものも存在します。

無邪気であるからこそ、失うものも何もなく前に進めるという観方もあり、これはこれで難しい問いかけです。

例えどんなに無邪気でも、これまで通りどんなに小さな声でも本気に対しては本気で答えます!

常に未来は無限であり、気づいたその瞬間が本当のスタートです。

共に成長して、共にゴールを達成していきましょう!

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