『人はなぜ、宗教にハマるのか?』

本書は、ひとと宗教の歴史との関わりを明らかにし、これからのひとと宗教の未来のあり方に鋭く切り込んだ著書である。


宗教とは一体何かという問いは、一見初歩的な内容であるにも関わらず、その問いに答えることは極めて難しい。

なぜなら、宗教には必ず神という存在を前提としているからである。

神という我々の眼に観えない、存在の有無に様々な議論を呼ぶ概念が中心に来る以上、そこから要請されるシステムに当然差分が生まる。

もちろん、個別の宗教という意味では、それぞれに神が存在し、その神から演繹的にとても緻密な論理が積み上げられている。
そのため、神の存在そのものが証明されているという点を除けば、その宗教体系自体はとても整合的に完成されている。

いうまでもなく、歴史的に長い時間をかけて生き残ってきた宗教ほど、この傾向は顕著である。


しかし、宗教がいかに完成されたものであったとしても、その存在によって、様々な問題が起きていることも事実である。

例えば、自爆テロ、十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、インド・パキスタン分離独立、イスラエル・パレスチナ戦争などがこれにあたる。

宗教の本来の目的は、一重に人々の幸福追及であるが、その背景にはその宗教の信仰を持つ人という大前提があり、信仰を持たないものは人間ではないという摩訶不思議な論理が跳梁跋扈する。


これは、宗教という存在が物理空間における支配・制約を受けず、情報空間における整合的な広がりのみを重点を置いているからだと考えられる。

それ自体が、如何に整合的なのもであろうとも、それが本来の目的を達成するものであるかという俯瞰した視点は常に必要である。

もちろん、釈迦やイエスの頃はおそらく本気で我々の幸福を願っていたと思われ、そして現在も本質的にはそうであると思われる。
しかし、残念ながら時代とともにひとも宗教も様々な影響を受け、変化を迫られる。

他にもリーダーが変わるとき、組織の在り方に必ず変化が生まれることは、現代の会社組織とも比較しても何ら変わらない。
宗教の場合、分派という言葉で現される。

以上をまとめて、宗教をこの場では、『人間や自然の力を超えた存在を中心に置き、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団』と定義する。

なお、本レビューの立場を明確にすると、神も宗教も否定するものではない。

あくまで神と宗教を自分の都合よく解釈し、運用する側への問題提起である。 


さて、宗教とは何かを考えるにあたって、神とは一体何かという問いは欠かすことはできない。

釈迦が創始した頃の仏教を除くと、ほぼ例外なく宗教には必ず神という公理を前提に置いているからだ。

公理を置き、そこから演繹的に結論を導くというスタイルは、数学でも採用されているものであり、それ自体は特に問題ない。

しかし、公理という概念には、証明せずともそれだけで充分確からしいという前提がついている。

数学の場合、2つの点をつなぐ直線は1本しか存在しないというものだ。

そのため、神の存在がそもそも証明せずとも充分確からしいかというところから始める必要があるが、神の存在が確からしいかという問いは彼らにとっては確からしいものの、我々にとっては疑問である。

そのため、まず初めに宗教について考えるにあたって、神とは一体何なのかという問いから考えたい。


神とは、広辞苑によると『人知を超えた絶対的存在』と定義される。

そのための神の存在とは、古くはトマス・アクィナスの証明のような神の存在証明がある。


リチャード・ドーキンス著 神は妄想である p.117

(引用開始)

神の存在を支持する論証は、何世紀にもわたって神学者たちによって体系化され、誤った「常識」の普及を含めた他の人々によって補完されてきた。

一三世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものである――ただし、彼の高名を考えると、そういったことにためらいを感じはするが――ことがたやすく曝露される。

最初の三つは同じことを異なった言い方で述べているだけなので、いっしょに考察することができる。

これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている――ひとつの問いに対する答えが、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづく、というものだ。

(引用終了)


トマス・アクィナスとは、中世ヨーロッパの神学者であり、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した、神学の集大成と呼ばれる「神学大全」を著した人物である。


彼が主張した五つの神の存在証明は以下である。

1、不動の動者
どんなものも、それに先立って動かすものがいなければ動かない。
これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものが神である。
何かが最初の動きをつくらねばならず、その何か(第一動者)を私たちは神と呼ぶものである。

2、原因なき原因
どんなものも、それ自体によって引き起されることはない。
あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。
これは最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶものである。

3、宇宙論的論証
いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずに違いない。
しかし、物理的な事物が現にいま存在するするのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずに違いなく、それを私たちは神と呼ぶのである。

4、度合いからの論証
私たちは世界の事物に違いがあることに気付いている。
たとえば、善、あるいわ完全さについてはさまざまな度合いがある。
しかし私たちはそうした度合いを最大限のもととの比較によってのみ判断する。
人間は善くも悪くもどちらかでありうるから、最大の善は私たちうちにあるはずがない。
したがって、完全さの基準を定める何らかの最大者がほかに存在しなければならず、その最大者を私たちは神と呼ぶものである。

5、神学的な論証(目的論的論証)
世界の事物、ことに生物は、目的をもって設計されたかのように見える。
私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたように見えるものはない。
したがって設計者が存在したに違いない。
私たちはその設計者を神と呼ぶものである。


これらの論証は全て、今の我々には理解できない現象を、全て神という言葉で一括りにしたにすぎないものである。

また、その裏側には、自分たちは不完全であるが、必ず完全なるものがどこかに存在するという願いにも似た感情が見え隠れする。


しかし、すでに周知なように、完全なるもの、すなわちアプリオリが存在しないことは、すでにゲーデル・チャイティンによって証明されている。

もちろんハイゼンベルグの不確定性原理も同様の見解をもたらすものである。

少し余談になるが、完全性がないということを理解するために、チャイティンが行った不完全性定理の証明風景を簡単に共有する。

彼はLispと呼ばれるコンピュータ言語を用いて、数学全般に不完全性が存在することを証明した。

このとき完全性とは何かを考えると、それはある公理から演繹的に全ての定理が表現可能でということである。

これを逆向きにいえば、定理から帰納的に公理を導くことが可能である。

つまり、全ての対象は何らかの公理がもたらす規則性による拡張によって成り立っていれば、それを逆向きに圧縮すると当然もともとの公理が導けるはずである。

そして、実際にLisp上でプログラムされたコードを走らせたところ、どこまでいっても圧縮できない要素が見つかった。

これがランダム性であり、完全なものが存在しないことの証明である。


話題を戻すが、ではここで世界の本当の姿とは、何かという問いが残る。

なぜなら、アクィナスの神の存在証明からも理解できるように、我々にとって預かり知らないことや説明できないものは、全て神が決定してくれたからである。

つまり、これは神という不動点によって、世界の全てを秩序立てていたということである。

しかし、その不動点がなかったということになれば、今の秩序は一気に崩壊する。
なぜなら、神が存在しない世界とは、世界を確定させる基準点がないがないということを示すものであるからである。

その世界をひとことで言い換えれば、カオスであり、ランダムである。

すなわち、少なくとも我々が期待するような意味は、世界のどこにもないということである。


我々の世界が見い出しいた意味は、全てゲシュタルト能力によるものである。

ゲシュタルトとは、全体と部分の双方向性を持つひとつの意味を持つまとまりのことであり、その各要素自体に特別な意味はない。

我々が観ている、あるいは共有する情報の全ては、このゲシュタルトであり、それは全て何らかの意味を持った対象である。

それがいくつも無限に並んだならば、まるで世界に何かしらの意味や、完全なるものが存在するという錯覚が起こっても不思議ではない。

そして自我そのものもゲシュタルトであり、これは機能として我々の脳はゲシュタルト化を常に行っている。
そのため、ゲシュタルト化自体が悪ということでは一切ない。


何もないところから、どのみち意味を創り出すなら、自分にとって幸福なもの、自分が心の底からほしいと願うものを創ることがいいというのは、当然の帰着である。

これはコーチングにおける、現状の外側へのゴール設定だ。

現状の外側とは、我々が認識する世界(ステータス・クオ)の中からは決して見えない世界のことである。


世界に何の意味がないのなら、創れば良いとの指摘は、至極真っ当なものであるものの、その作業自体は非常に手間と労力のかかるものである。

そして我々は、そのコストを大いに惜しむ。

そこに宗教が長い年月をかけて構築した整合的な高い知性は、とても魅力的に感じられるだろう。

しかし、その論理をそのまま受けれいれることは、ただの思考停止に他ならない。

そういう意味で、宗教とはまさに我々の心が生み出した人類史上最大の妄想である。


幸福とは、自分で見つけ、自分で創り出すものである。

それは他者から与えられるものではない。

コーチングの元祖である故ルー・タイスは、『私が幸せであるのは、私が幸せであることを選んだからだ』という言葉を残している。

我々は他人に与えられるまでもなく、最初から幸福を自分で選び、掴み取れる存在である。


本書をぜひ手に取り、自分が幸福となることを選んでほしい。