苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:努力不要

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


努力は非常に日本で大事にされている概念です。

目的に向かってコツコツと取り組み、課題をクリアし、そしてゴール達成していく、とても重要な取り組みです。

そして何より、努力をしているひたむきな姿は、それだけで他人の胸をうつものです。

私たちが、なぜ他人の頑張っている姿を観るのが好きなのかを考えたとき、それは頑張っている姿に元気と勇気をもらえるからです。

そして、そういう人たちから元気と勇気をもらえたかわり、私たちは心から応援してお返したくなるものです。


しかし、努力はとても素敵で尊い概念であることは事実ですが、同時に日本の努力に対する考え方は、とても野蛮だと感じることが多々あります。

なぜなら、努力している姿を是とするあまり、その姿を他人に強制的に押し付けることが横行するからです。

もっといえば、自分が努力をしていないと感じるものやひとへの執拗な攻撃が始まります。

そしてそういった空気感は、そうでないひとにも伝わります。

つまり自分が努力を怠ってしまったという強い劣等感を産み出します。


努力の本来の姿とは、目標を達成するための行為です。

そしてそれは目標を達成できることに意味が存在し、また能動的な行為です。

しかし、いつのまにかゴールを達成することに意味を見出さず、努力をしている姿そのものに意味があるかのような、すり替えが起こっています。


もちろん努力の概念自体を否定するつもりは皆無ですが、努力という行為自体に価値を見出すのは、とても不思議な現象だと言わざるを得ないでしょう。

なぜなら、そこにはゴールを達成するという本来の機能はないからです。

また、彼らが語る努力思想の裏側には、努力している自分は素晴らしいという、どこかナルシストにも似た、努力中毒ともいえる現象が見え隠れします。


努力を行うという前提には必ずゴールが存在し、それを達成するための努力は個人が能動的に取る選択です。


それを無視して、努力している人とそうでない人に分類し、努力をしないひとへの排斥や圧力は、まるで一神教のような論理です。

努力している姿は素晴らしい、だから努力をしていない人を卑下していいというのは、とても野蛮で自分勝手な妄想です。

もちろんその論理に自分を当てはめて、自分に価値がないと自分で卑下することも論外です。


自分の意思で、自分で望んで、努力を行っていくことが重要です。

努力とは、ゴール達成のためのただの戦略であり、それ以上の意味はありません。

努力はゴールを達成したいひとが淡々とするべきで、自分は自分の努力にきちんと肯定し、他人は他人の努力を自分の価値基準で測るべきではありません。

ゴールを達成することに私たちの興味は存在します。

そこだけにフォーカスして、見つめていけばいいのです。

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。

努力とは非常に尊い概念です。
しかし、私たちのゴール達成に基本努力は不要です。

これは事実であり、21世紀の現代に努力は不要であると私も考えますが、如何せんどうもこの努力不要という言葉に、何かしらギャップがあるように感じます。


努力という言葉の意味を広辞苑で調べたならば、『ある目的のために力を尽くして励むこと』であるそうです。

ある目的のために力を尽くすというだけならとても美しい形容ですが、実際私たちはこの言葉になんともいえない血生臭く、ドロドロしたメージを持っています。
もちろんそこには辛く、苦しく、強制される、といういうようなネガティブな風景も含んでいます。

私たちがよく知るように嫌なことをしても生産性は全く上がりません。
なぜなら、脳は徹底的に嫌なことを拒否するからです。

会社の上司から好きでもない仕事を振られたら、どうにかやらない方法を探すのは、これが原因です。


さて、ここできちんと諦観したいのは、努力という存在の指向性です。

努力不要とは、確かに嫌なことをしなくてもいいという意味ですが、何もしなくていいといっているわけではありません。

努力不要を嫌なことを我慢して続けるという意味でとらえるならば、不要であるとの解釈に納得です。
しかし努力不要を何もしなくていいという意味でとらえるならば、それはただの都合の良い解釈です。

後者でいえば、頭で考えるだけで世界から貧困も飢餓も戦争もなくなるといっているに等しいわけです。
もちろん世界から貧困も飢餓も戦争もなくなることは大変いいことです。
なので、手を全く動かさずとも、頭で考えるだけは常にするべきでしょう。


また、努力という言葉をモチベーションという観点で見下ろすのなら、それは建設的動機づけ強制的動機づけとして表現できると思ます。

ひらたく言えば、Want-toとHave-toです。もちろん前者がWant-toであり、後者がHave-toです。

私たちが連想する努力とは、まさにこの強制的動機づけのことを意味します。
そして強制的動機づけがなぜダメかといえば、そこの裏には「さもないと」と自身を脅迫する言葉がついてくるからでした。

上司に怒られるかもしれないから仕事をするでは、ちっともパフォーマンスは上がりません。


そう考えたとき、努力不要とは、ただ単にゴール到達までのアルゴリズムの問題であるといえるでしょう。

アルゴリズムが悪いだけらなら、もっといいものに入え換えたら解決します。

努力不要とは、アルゴリズムの問題です。

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