苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:不確定性原理

『人はなぜ、宗教にハマるのか?』

本書は、ひとと宗教の歴史との関わりを明らかにし、これからのひとと宗教の未来のあり方に鋭く切り込んだ著書である。


宗教とは一体何かという問いは、一見初歩的な内容であるにも関わらず、その問いに答えることは極めて難しい。

なぜなら、宗教には必ず神という存在を前提としているからである。

神という我々の眼に観えない、存在の有無に様々な議論を呼ぶ概念が中心に来る以上、そこから要請されるシステムに当然差分が生まる。

もちろん、個別の宗教という意味では、それぞれに神が存在し、その神から演繹的にとても緻密な論理が積み上げられている。
そのため、神の存在そのものが証明されているという点を除けば、その宗教体系自体はとても整合的に完成されている。

いうまでもなく、歴史的に長い時間をかけて生き残ってきた宗教ほど、この傾向は顕著である。


しかし、宗教がいかに完成されたものであったとしても、その存在によって、様々な問題が起きていることも事実である。

例えば、自爆テロ、十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、インド・パキスタン分離独立、イスラエル・パレスチナ戦争などがこれにあたる。

宗教の本来の目的は、一重に人々の幸福追及であるが、その背景にはその宗教の信仰を持つ人という大前提があり、信仰を持たないものは人間ではないという摩訶不思議な論理が跳梁跋扈する。


これは、宗教という存在が物理空間における支配・制約を受けず、情報空間における整合的な広がりのみを重点を置いているからだと考えられる。

それ自体が、如何に整合的なのもであろうとも、それが本来の目的を達成するものであるかという俯瞰した視点は常に必要である。

もちろん、釈迦やイエスの頃はおそらく本気で我々の幸福を願っていたと思われ、そして現在も本質的にはそうであると思われる。
しかし、残念ながら時代とともにひとも宗教も様々な影響を受け、変化を迫られる。

他にもリーダーが変わるとき、組織の在り方に必ず変化が生まれることは、現代の会社組織とも比較しても何ら変わらない。
宗教の場合、分派という言葉で現される。

以上をまとめて、宗教をこの場では、『人間や自然の力を超えた存在を中心に置き、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団』と定義する。

なお、本レビューの立場を明確にすると、神も宗教も否定するものではない。

あくまで神と宗教を自分の都合よく解釈し、運用する側への問題提起である。 


さて、宗教とは何かを考えるにあたって、神とは一体何かという問いは欠かすことはできない。

釈迦が創始した頃の仏教を除くと、ほぼ例外なく宗教には必ず神という公理を前提に置いているからだ。

公理を置き、そこから演繹的に結論を導くというスタイルは、数学でも採用されているものであり、それ自体は特に問題ない。

しかし、公理という概念には、証明せずともそれだけで充分確からしいという前提がついている。

数学の場合、2つの点をつなぐ直線は1本しか存在しないというものだ。

そのため、神の存在がそもそも証明せずとも充分確からしいかというところから始める必要があるが、神の存在が確からしいかという問いは彼らにとっては確からしいものの、我々にとっては疑問である。

そのため、まず初めに宗教について考えるにあたって、神とは一体何なのかという問いから考えたい。


神とは、広辞苑によると『人知を超えた絶対的存在』と定義される。

そのための神の存在とは、古くはトマス・アクィナスの証明のような神の存在証明がある。


リチャード・ドーキンス著 神は妄想である p.117

(引用開始)

神の存在を支持する論証は、何世紀にもわたって神学者たちによって体系化され、誤った「常識」の普及を含めた他の人々によって補完されてきた。

一三世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものである――ただし、彼の高名を考えると、そういったことにためらいを感じはするが――ことがたやすく曝露される。

最初の三つは同じことを異なった言い方で述べているだけなので、いっしょに考察することができる。

これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている――ひとつの問いに対する答えが、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづく、というものだ。

(引用終了)


トマス・アクィナスとは、中世ヨーロッパの神学者であり、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した、神学の集大成と呼ばれる「神学大全」を著した人物である。


彼が主張した五つの神の存在証明は以下である。

1、不動の動者
どんなものも、それに先立って動かすものがいなければ動かない。
これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものが神である。
何かが最初の動きをつくらねばならず、その何か(第一動者)を私たちは神と呼ぶものである。

2、原因なき原因
どんなものも、それ自体によって引き起されることはない。
あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。
これは最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶものである。

3、宇宙論的論証
いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずに違いない。
しかし、物理的な事物が現にいま存在するするのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずに違いなく、それを私たちは神と呼ぶのである。

4、度合いからの論証
私たちは世界の事物に違いがあることに気付いている。
たとえば、善、あるいわ完全さについてはさまざまな度合いがある。
しかし私たちはそうした度合いを最大限のもととの比較によってのみ判断する。
人間は善くも悪くもどちらかでありうるから、最大の善は私たちうちにあるはずがない。
したがって、完全さの基準を定める何らかの最大者がほかに存在しなければならず、その最大者を私たちは神と呼ぶものである。

5、神学的な論証(目的論的論証)
世界の事物、ことに生物は、目的をもって設計されたかのように見える。
私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたように見えるものはない。
したがって設計者が存在したに違いない。
私たちはその設計者を神と呼ぶものである。


これらの論証は全て、今の我々には理解できない現象を、全て神という言葉で一括りにしたにすぎないものである。

また、その裏側には、自分たちは不完全であるが、必ず完全なるものがどこかに存在するという願いにも似た感情が見え隠れする。


しかし、すでに周知なように、完全なるもの、すなわちアプリオリが存在しないことは、すでにゲーデル・チャイティンによって証明されている。

もちろんハイゼンベルグの不確定性原理も同様の見解をもたらすものである。

少し余談になるが、完全性がないということを理解するために、チャイティンが行った不完全性定理の証明風景を簡単に共有する。

彼はLispと呼ばれるコンピュータ言語を用いて、数学全般に不完全性が存在することを証明した。

このとき完全性とは何かを考えると、それはある公理から演繹的に全ての定理が表現可能でということである。

これを逆向きにいえば、定理から帰納的に公理を導くことが可能である。

つまり、全ての対象は何らかの公理がもたらす規則性による拡張によって成り立っていれば、それを逆向きに圧縮すると当然もともとの公理が導けるはずである。

そして、実際にLisp上でプログラムされたコードを走らせたところ、どこまでいっても圧縮できない要素が見つかった。

これがランダム性であり、完全なものが存在しないことの証明である。


話題を戻すが、ではここで世界の本当の姿とは、何かという問いが残る。

なぜなら、アクィナスの神の存在証明からも理解できるように、我々にとって預かり知らないことや説明できないものは、全て神が決定してくれたからである。

つまり、これは神という不動点によって、世界の全てを秩序立てていたということである。

しかし、その不動点がなかったということになれば、今の秩序は一気に崩壊する。
なぜなら、神が存在しない世界とは、世界を確定させる基準点がないがないということを示すものであるからである。

その世界をひとことで言い換えれば、カオスであり、ランダムである。

すなわち、少なくとも我々が期待するような意味は、世界のどこにもないということである。


我々の世界が見い出しいた意味は、全てゲシュタルト能力によるものである。

ゲシュタルトとは、全体と部分の双方向性を持つひとつの意味を持つまとまりのことであり、その各要素自体に特別な意味はない。

我々が観ている、あるいは共有する情報の全ては、このゲシュタルトであり、それは全て何らかの意味を持った対象である。

それがいくつも無限に並んだならば、まるで世界に何かしらの意味や、完全なるものが存在するという錯覚が起こっても不思議ではない。

そして自我そのものもゲシュタルトであり、これは機能として我々の脳はゲシュタルト化を常に行っている。
そのため、ゲシュタルト化自体が悪ということでは一切ない。


何もないところから、どのみち意味を創り出すなら、自分にとって幸福なもの、自分が心の底からほしいと願うものを創ることがいいというのは、当然の帰着である。

これはコーチングにおける、現状の外側へのゴール設定だ。

現状の外側とは、我々が認識する世界(ステータス・クオ)の中からは決して見えない世界のことである。


世界に何の意味がないのなら、創れば良いとの指摘は、至極真っ当なものであるものの、その作業自体は非常に手間と労力のかかるものである。

そして我々は、そのコストを大いに惜しむ。

そこに宗教が長い年月をかけて構築した整合的な高い知性は、とても魅力的に感じられるだろう。

しかし、その論理をそのまま受けれいれることは、ただの思考停止に他ならない。

そういう意味で、宗教とはまさに我々の心が生み出した人類史上最大の妄想である。


幸福とは、自分で見つけ、自分で創り出すものである。

それは他者から与えられるものではない。

コーチングの元祖である故ルー・タイスは、『私が幸せであるのは、私が幸せであることを選んだからだ』という言葉を残している。

我々は他人に与えられるまでもなく、最初から幸福を自分で選び、掴み取れる存在である。


本書をぜひ手に取り、自分が幸福となることを選んでほしい。



















『夢が勝手にかなう脳』

本書は、情報空間と物理空間の連続性を背景に、自分らしい人生を生き、そしてゴールを達成するメソッドを公開した書籍である。

情報空間から物理空間へ渡る情報の連続性についての議論は、苫米地理論における中心概念のひとつであり、また苫米地式コーチングが苫米地理論から生まれた歴史を鑑みると、確実に押さえたいパラダイムである。

なお、本書ではこれまでの著書のうち、唯一A次元(アブストラクト次元)について言及された著書でもある。


情報空間と物理空間の連続性の理解には、情報空間と物理空間の包摂関係についての定義から始める必要がある。

この問いを考えるにあたって、哲学の世界にて長く議論されてきた「存在VS認識」の論争を取り上げたい。


この論争は言葉の通り、存在があって初めて認識が生まれるのか、それとも認識があって初めて存在を知覚することができるのかについての議論である。

例えば、物理世界に存在する「木」を見て、初めてそれは木であると私たちは認識している。
つまり、「木」という存在が先にあって、後から木という名前を付けたということである。

しかし、iPadのような精密機器は、確かに現在物理空間に存在しているが、古来よりずっとあったものではない。
故スティーブ・ジョブズの頭の中にあったものが、様々な創意工夫を得て物理空間に現れたものである。
つまり、これは認識が先にあり、そして存在が知覚されたということである。


我々の一般的な感覚では、前者の方が経験的にも馴染深いものであるが、苫米地理論の結論では逆で、正しい方は後者であると考える。

この理解のために、不確定性原理を考えたい。

不確定性原理とは、量子の位置と運動量(速度)の両方を正確に知ることはできないという量子力学における定理である。

不確定性原理を温度の測定を例として考える。
熱いお湯の入ったビーカーに温度計を指したところ、温度計が70℃を指したとき、お湯は70℃ではないというのが、不確定性原理の主張である。
正確には近似的に70℃であるというものだ。

正確に温度測ろうとした場合、お湯の熱はもちろんビーカーや温度計に伝播し、空気中にも逃げていることを加味しなければならない。

量子とは原子より小さいスケールの存在であり、その測定は困難である。

なぜなら、先の温度計もそうであるが、測定する行為自体が、測定する対象に影響を与えてしまうからだ。

ここだけ踏まえると、量子はアプリオリに存在し、私たちの測定技術の低さに基づく結果であると感じるが、そうではない。

専門的になりすぎるので詳細は割愛するが、量子は存在自体が揺らいでおり、そして確率的である。



話を元に戻すが、温度計が70℃を指したとき、それは確かに近似的に70℃であるが、それ以外にも実際に目盛りを読む人間にも差が生じる。
 
例えば、大雑把な学生ならば70℃と読むが、生真面目な学生は70.1℃と読むという具合だ。

大雑把な学生にとってお湯は確かに70℃であり、生真面目な学生にとっては70.1℃である。
 
そしてこれを逆向きにいうのなら、大雑把な学生にとってお湯は70.1℃ではなく、生真面目な学生にとってお湯は70℃ではないということである。

ここに不確定性原理のもうひとつの重要な知見が隠されている。

それは観測できないものは存在しないことと同義であるということである。


先ほどの「存在VS認識」における木の例に立ち返るならば、私たちが木を認識して初めて木の存在を知ることができるということである。
 
これは仮に木が認識できなければ、目の前にあってもその存在を認識することはできないことを意味する。
 
それはあくまでどのように認識するかの違いに過ぎないという結論に基づくが、木と認識できなければ、それはただの棒であり、ただの柱であり、あるいはただの円柱の壁であるということである。

今まで人生の中で木を見たことがないひとに、木を見せれば、それは木という存在を理解できない。

つまり、我々の一般的な感覚として、物理空間に情報空間が包摂しているように感じているが、実際は情報空間に物理空間が包摂されているということである。


なお、この事実を認知科学として落とし込むなら、それはRASによる情報遮断を指す。

RASとはReticular Activating Systemの略であり、日本語では網様体賦活系と訳され、背側縫線核(脳幹)から新皮質にかけて広く伸びている神経系のことである。

RASは五感から拾い上げた膨大な情報を、フィルターする役割であると考えられている。

フィルターを超えたものが、意識にあがって知覚することが可能であり、フィルターで落ちればそれは知覚できず、その人にとっては存在しないことになる。

繰り返しになるが、認識して初めて存在が確認できるということである。

なお、余談であるが、RASは覚醒時に活動し、就寝時には停止することから、認知神経科学ではRASそのものが意識の正体であるとの学説もある。


アントニオ・ダマシオ著 無意識の脳 自己意識の脳 p.300~301
(引用開始)

網様体についての伝統的見解は、1940年代から50年代初めにかけてH・W・マグーン、G・モルッツィらが行った一連の注目すべき実験そのものがあるといってよい。

(中略)

この賦活系の仕事は、大脳皮質を覚醒状態に維持することだった。
 
そしてこの覚醒状態は、当時も今もたいてい意識の同義語として受け取られる。
 
網様体は、それより上部に位置する事実上すべての神経系部位、とりわけ大脳皮質に大きな影響を及ぼした。
 
その影響は大脳半球全域に及び、この影響の比喩的表現として「目覚めさせる」とか「活性化させる」といった言葉がしばしば使われた。
 
網様体賦活系は大脳皮質を覚醒させ、大脳皮質を知覚、思考、意図的行動が可能な作用モード--要するに意識的な状態に--置いた。

(引用終了)

少し結論をいそぐが、私たちが同じ世界を生き、そして同じ世界を観ているという感覚は、実は錯覚である。

私たちは観測できないものやあいまいなものを無条件に切り捨てていることで、近似的にだいたい同じものを観ているという感覚を得る。

この近似的に同じものを観ている、つまりだいたいおおよそ共有出来ていると思われる世界を我々は物理空間と呼んでいるのである。

ここには、『その認識はどこから生まれるのか?』という素朴かつ核心的な問いが残るが、その結論がA次元があり、A次元の高いところに広がった情報空間を通して認識がもたらされ、物理空間を観るということである。

すなわち、物理空間は情報空間の写像であるということである。

写像とは、数学における橋渡しの概念であり、線形代数において写像は、単射、全射、全単射の3つに細分化される。
この場では、情報空間と物理空間における一対一、一対多、多対一、多対多といった対応関係と捉えてほしい。


さて、情報空間と物理空間における連続性の議論を終えると、私たちのゴール達成とは情報空間から物理空間への写像の完了であるということが理解できる。

このとき非常に重要なことは、正しく、かつ細部まできちんと、ゴール側の情報場を創るということである。

もちろんこのとき、自分が存在する情報場も正しく、かつ細部まできちんと認識できていることが望ましい。
 
なぜなら、認識が明確であればあるほど、それは臨場感を持っているということであり、その2つの場における移動がより容易になるからである。

我々がゴール側へ移行するとき、たいていはゴール側の情報場が創り込みが弱いため、移行が難しい。

しかしこの事実は特別悲嘆するものではない。
現状の外側とは定義上観えないものであり、必然的に創り込みが弱くなるからだ。

ただ別の事実として、移動する際そのプロセスにおいて途中別の情報場に移行することになるが、そのとき別の情報が新たに加算される。

つまり、ゴール側の情報場の創り込みが強くなるのである。


いうまでもなく、物理空間は情報空間に包摂され、対応関係があることから、情報空間における場の移動は、ダイレクトに物理空間の移動につながる。

故ルー・タイスの重要なメッセージのひとつに『重要な変化は全て心の中から始まり外へ広がっていく』というものがある。

心の中とは、苫米地理論における情報場の認識である。

そして外へ広がるとは、物理空間を包摂した情報空間における場の移動である。


コーチングのコンテキストで考えても、情報空間における場の移動がゴール達成であるという事実に、これはピタリと整合する。

心の中で明確にゴールを認識することで、きちんと物理が置き換わり、私たちはゴールを達成することができるのである。


ぜひ本書を手に取り、A次元に存在する情報空間に高い臨場感を持って、自由自在に移動してほしい。




ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


過ぎたるは及ばざるが如し。

小学校高学年くらいの国語の教科書に載っている言葉でしょうか?
私も大学生の頃、研究室の指導教授からこのように言われたものです。

この言葉の裏に潜むアルゴリズムは、抜きん出て凄い人というのは、往々にして世間から理解されないものであるということです。
私の過去のブログでも何度も色々な過去の偉人を例に紹介しましたが、彼らの抽象度の非常に高い功績の数々は最初は無視され、次第に議論が始まり大きくなって、そして誰もが認めざるを得ない純然たる事実になるというプロセスを辿ります。
こういった事実が過去の歴史を紐解けばいくらでもありますが、きちんと私たちの身体にまで落ちていくためにはまだまだ時間がかかりそうです。


内容が横に逸れました。
話を元に戻しますが、自分のアウトプットが人に理解されないといっても、誰かがいづれその凄さに気付くものです。
ただこのタイムラグは、正直どれくらいかかるのかはわかりません。
1日や1週間かもしれないし、1か月や1年かもしれれない。
下手をすれば一生理解されることがないかもしれません。
未来が不確定であることは、ここにも不確定性は落ちてきます。

モーツァルトは、現在私たちにこれほど長く愛される楽曲を創りましたが、生前はこれほどの楽曲を創ったにも関わらず、報酬を出し惜しみされ、非常に貧乏だったそうです。
モーツァルトのようなことが今でも起こるかといえば、私たちは彼らよりも多様の価値があることを知っているし、モーツァルトが生きていたころよりも遥かに教育が進んでいる分、いくらかはマシです。
冷静に落ち着いて、凄いものは凄いと、理解できるだけの知性はあるはずです。

過ぎたるは及ばざるが如しとは、いってしまえば過ぎ方が足りないのです。
もっともっと過ぎてしまいましょう!
モーツァルトですら、過ぎ方が足りなかったのだから、我々はもっとです!
今の私たちは他人が驚く暇もないくらいの過ぎっぷりが必要です。それも今この瞬間から。


もちろんこの世に絶対なものが存在しないように、全部が全部過ぎてしまえばいいと思うのは早計です。
例えばあなたが政治家であるのならば、説明責任が必要です。

民主主義が完全に機能していない日本といえど、体裁は民主主義を装っている以上、その論理を用いないといけません。

姜尚中先生の著書、『リーダーは半歩前を行け』から引用すると、政治家は半歩前へ進むことが必要であるとあります。
この言葉の意味は、一歩前に進んでは自分の政策を発信し、理解してもらえなかったときは一歩下がって国民に理解を仰ぐというものです。
一歩進んでは一歩下がる姿勢を、平均して半歩と表現しましたと本文でありますが、この表現はなかなか秀逸です。
民主主義とは自分の1票を、その人の投票するわけですから、どんなに突き抜けてもきちんと戻ってきて、説明して理解を求めることがついて回るわけです。


このように機能や役割によって、現状を超えていくことだけでいいかどうかのということは変わります。

ただ少なくとも私のブログの読者は政治家ではないはずですし、ゴールを達成したいわけです。
なら、壮大なゴール側のグランドデザインとともに、どこまでも抜きん出ていく必要があるわけです。

もっともっと突き抜けて、どんなにニブチンの周りの人でも、気づかざるを得なくなるくらい、突き抜けてしまいましょう。

まだまだ突き抜け方が足りないのです。
そして、それが無理だと思ったのなら、それがすでに自分がかけたストッパーであることにも気づいてしまいましょう。
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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


武道の世界には守破離という言葉があります。

これは最初は型から入り、それをマスターして、最後にその型をアレンジし、自分のオリジナルにしていくことで限界突破していこうという考え方です。
いつもいうように、型とはおしなべて抽象度の高い概念でした。そして抽象度が高いからこそ、誰でも簡単に、武道の真髄を自身へインストールできるのです。

こう見ると、型から入ることはとても合理的です。
ですが、人によってはこの型から入ることを嫌がる人がいます。非常に残念な話です。
まずは自分のやちたいようにやってみる、それが全てだといわんばかりです。
正直これはこれで最初は良いと思います。
そしてその過信が、出る杭は打たれるという意味ではなく、徹底的に打ちのめされることで自身の非力さと無力さを悟り、型の重要性に気付くなら、そのコストは十分払うに値するものです。

素直に型から入れば、当然一気に偉人達への領域に突入できます。
気の遠くなるような長い修行期間を経るまでもなく、比較的短い時間でかつスムーズにある一定の頂きまではいけます。
型というものは先人たちの膨大な時間と膨大な知識や経験が圧縮されて、ひとつの概念になっているのだから当然です。
もし型の裏に潜む情報場にアクセスできないのであれば、それはただ純粋にその人の抽象度が低いだけです。
しかし心配せずともそれはおのずと勝手に上がるし、わかってくることです。

ただ素直に型から入る場合も少し困ったことがあって、それは「それの一体何がすごいの?」というような感覚に至ることです。
すごいという感覚は、ある明確な基準をもつからこそ自分の中で産まれる感情です。
なので、明確な基準もなしにこの感情は起こり得るはずはありません。

前者の場合は、散々痛めつけられることで否応なく基準ができるわけですから、そのインパクトがよくわかります。
そういう意味でも、支払ったコストは無駄ではないのです。


実は科学の世界にも同様なことがいえます。
天才とは何でもポンポン思いつく人というような幻想を抱いている人が大半ですが、それは抽象度が低いからその天才の世界が整合的に観えないだけです。
彼らのすごい点は当然ゲシュタルト能力の高さもありがすが、それ以上にきちんと先人や偉人達からのバトンを受け取ったことにあります。
ゲシュタルトの定義をご存知なら、統合するための要素がそもそも必要であることはいうまでもありません。
統合するための事前要素がないのに、一体どうやって統合するのでしょうか?

不確定性原理をご存知なら、逆にどんどん要素は減らしていけば、ある瞬間量子のように統合要素がポツポツと湧いて出てくるかもしれません。
これは冗談です。笑


コーチングも同じです。
その人と一緒にいるということは、それだけでその人から無形の財産をもらうことです。
それを無視するのはあまりにもおざなりです。

そして守破離という言葉のように、最後は否応なく自分の殻を壊さなくてはなりません。
それが出来て初めて一流です。

ちなみに苫米地理論では、これを超越という風に定義しています。
このときばかりは誰も教えてくれる人はいないので、下から上に向かってn^5のオーダーの計算を思う存分してください。

私のブログの読者なら、ぜひこれくらい世界観とゴールイメージは当然のように押さえておきましょう。

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


人間の脳は知っているものしか認識しません。

そして一度見たものは、基本的にもう二度と見ることはありません。

私たちはいい加減な認知の上で、見てないものもあたかも見たかのように、捏造と錯覚をリアルと思い込まされて生きています。
そしてそんなことは子供でも当然のように知るべき内容だと思っています。


なぜ純真無垢な子供が、ゲーデルの不完全性定理や神の不存在証明、ハイゼンベルグの不確定性原理、プロスペクト理論、リベットの意識の幻想性についての研究を知るべきなのか?

答えは極めて簡単です。知ることが必要だからです。

例え小学生であったとしても、メタ数学も量子論や超ひも理論も認知科学も知る必要があると思っています。
もちろん小学生でも知るべき内容といっても、小中高と学ぶ内容が徐々に複雑になるように、理解の程度や段階はあっていいと思います。
すでに証明され、すでに明らかになった知は、すべからく行き届いた私たちの共有財産として扱われるべきです。


リベットの意識の幻想性について知れば、自分の行動に疑問を持つことができます。

不完全性定理やグリムの定理を知れば、例え親や先生から「君には才能がない。無理だ」と言われたとしても、その言葉に何の根拠もないことがわかります。
カオス理論や複雑性についてのきちんとした理解があれば、神でも予測不可能であることが、この大人たちに予測できるはずがないということが自明となるからです。

大人は自分は全てわかっているという顔をして、子供に接します。そして皮肉にも子供は自分の知らない世界があることを知っています。この構図はまさにソクラテスの無知の知です。
ただの小学生がこれらの知識を学ぶだけで、このような本質が浮き彫りになります。

このように知識とは、それだけに自分の認知の幅を広げてくれます。もちろん知識があると、それ故に発生するスコトーマもありますが、本質的には知らないより知っていることが断然いい。
これはゲシュタルトの統合からも明らかです。
そして知識があれば、自分の圧倒的なパフォーマンスの上昇もそうですし、親や社会からの押し付けられた善意も跳ね返すことも可能です。

知識があるとはそれだけで強いのです。そしてそれができる最低限の科学的知識は知っておくべきです。
大人はもちろんいうまでもなく当然です。
日々の行動にそれが落ちてないといけません。

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