苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:ルータイス

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


「こんなはずでは!?」と、過去の自分の選択の誤りを悲嘆したくなる瞬間は、過去に誰しもあるでしょう。

冗談半分で「こんはずでは!?」とオーバーリアクション気味に捉えられた場合は幸いです。
なぜなら、その失敗を踏まえて、次へ進むことができるからです。

そして、どちらかといえば「なんてことをしてしまったんだ・・・」とか、「何故こうしなかったんだ・・・」と、自分を責めたり、圧倒的な虚無感に襲われることの方が大半です。

虚無感に襲われれば、いうまでもなく、冷静な判断力が欠如し、何かトラブルが起こっても、事態を収拾することはできません。

しかも厄介なことに、大抵はそういった選択の失敗は、自分が決して外したくない瞬間に訪れるので、より一層テンパりに拍車をかけます。


さて、こんな事態を避けるために、大きな命題としてそもそも「最善な選択」とは何かを考えてみましょう!

上記の場合というのは、意識的であれ、無意識的であれ、自分にとって「これが最もいい選択だ!」と考えていることから始まります。

そしてその「最もいい」の自分の期待値から、外れてしまうことが原因です。


「最善な」という言葉の裏には、いくつかの選択肢が存在します。

そして選択という言葉には、それらのひとつを選ぶこと、つまり選ぶための情報があったことを意味します!


例えば、A社の株を買うか買わないかを考えると、「A社の株が上がる」という情報を見つけてからを買うということです。

あきらかにインサイダーであるという指摘は横において、「A社はB社を吸収合併し、業界1位の会社になる」という情報をすでにもっていれば、どう考えてもA社の株を買おうと考えてます。

これはある情報に基づく、最善の選択です。


しかし、その後、実はA社が粉飾決算を行っているという情報を得たらどうでしょう?

しかも、すでに粉飾決算を行っていることを公安にリークされており、いつ摘発されてもおかしくないという情報です。

そうなると、どう考えても、A社の株を買おうとは思いません。

なぜなら、A社の株を買っても摘発されれば、下落することは眼に見えており、買わないことが最善の選択だからです。


ここでのポイントは何かといえば、情報の獲得にタイムラグがあることです。

つまり、そのときは最善であった選択が、次の瞬間には最善の選択ではなくなっているということです。

もちろん逆もあり得ます。

「A社がB社を吸収合併する」という情報を知った瞬間と、「A社が粉飾決済を行っている」という情報を知った瞬間は違うのです。

違う以上、前提は崩れ、最善の選択は変わってしまうわけですが、「A社が粉飾決済を行っている」情報を知った途端、A社の株を購入したことに後悔します。

もちろん株価が下がって損をしたことは、非常に悲しい出来事ですが、それと同時に仕方ないことでもあります。

なぜなら、その当時は「A社が粉飾決済を行っている」という情報を知らなかったからです。

知らない以上、どうしてA社の株を購入しないと選択できるのでしょうか?

それこそ「最善な選択」を捨てればそれは可能ですが、そもそも論として、なら何も考えずに選択した場合と同じです!


であるならば、私たちは自分のマインドの持ち方として、どうすることが適切でしょうか?

それは、常に最善の選択をしたと考えるということです!

だがら、失敗したときも「俺(私)らしくなかった。次はこうしよう!」となるわけです。


私たちが日常で良く使う「最善」という言葉は、今自分の見えている情報のなかでの最善です。
 
時間がたてば今持っていない情報が入ってくることは必然であり、それはつまるところ常に私たちは、断片的な情報の中で不合理で不条理な判断をしないといけないということです

そしてこれをもっと突っ込んでいうと、そもそも間違えない方がおかしいのです。


ただこれだけでは少し不十分で、最善の選択をしたと心から思いたいのではあれば、さらにここに自己責任を持つことです。

自己責任という言葉を使うと、日本ではどうしても自分の不始末を自分でつけるというネガティブな意味合いが強いですが、コーチングでいう自己責任はそうではありません。

それは積極的に自分の行動を受けて入れていくことです! 

その行動から派生する良い出来事も悪い出来事も、全て心から自分がそうしたと真正面から向き合うということです。


私がよく使う言葉は、「自灯明自燈自帰依」です。

ひらたくいえば、自分で自分を照らし、自らを拠りどころにするということです。

もっといえば、自分に由って立つから自由ということです。


愉しく良いことは毎日起きているときは、勝手にエフィカシーがあがります!

何をやっても成功すると感じるし、何をやってもうまくいきそうな気がします!

なので、どちらかといえば本当にエフィカシーの真価を試されるのは、自分が手痛い失敗をし、打ちのめされた瞬間です。

その状態でこそ、「それでも!」と心の底からあきらめ悪くいえることが重要です! 


失敗とは、もう1段階飛翔するための、格好のチャンスです!

今まで乗り越えて来たように、ここも乗り越えていきましょう! 

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『人はなぜ、宗教にハマるのか?』

本書は、ひとと宗教の歴史との関わりを明らかにし、これからのひとと宗教の未来のあり方に鋭く切り込んだ著書である。


宗教とは一体何かという問いは、一見初歩的な内容であるにも関わらず、その問いに答えることは極めて難しい。

なぜなら、宗教には必ず神という存在を前提としているからである。

神という我々の眼に観えない、存在の有無に様々な議論を呼ぶ概念が中心に来る以上、そこから要請されるシステムに当然差分が生まる。

もちろん、個別の宗教という意味では、それぞれに神が存在し、その神から演繹的にとても緻密な論理が積み上げられている。
そのため、神の存在そのものが証明されているという点を除けば、その宗教体系自体はとても整合的に完成されている。

いうまでもなく、歴史的に長い時間をかけて生き残ってきた宗教ほど、この傾向は顕著である。


しかし、宗教がいかに完成されたものであったとしても、その存在によって、様々な問題が起きていることも事実である。

例えば、自爆テロ、十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、インド・パキスタン分離独立、イスラエル・パレスチナ戦争などがこれにあたる。

宗教の本来の目的は、一重に人々の幸福追及であるが、その背景にはその宗教の信仰を持つ人という大前提があり、信仰を持たないものは人間ではないという摩訶不思議な論理が跳梁跋扈する。


これは、宗教という存在が物理空間における支配・制約を受けず、情報空間における整合的な広がりのみを重点を置いているからだと考えられる。

それ自体が、如何に整合的なのもであろうとも、それが本来の目的を達成するものであるかという俯瞰した視点は常に必要である。

もちろん、釈迦やイエスの頃はおそらく本気で我々の幸福を願っていたと思われ、そして現在も本質的にはそうであると思われる。
しかし、残念ながら時代とともにひとも宗教も様々な影響を受け、変化を迫られる。

他にもリーダーが変わるとき、組織の在り方に必ず変化が生まれることは、現代の会社組織とも比較しても何ら変わらない。
宗教の場合、分派という言葉で現される。

以上をまとめて、宗教をこの場では、『人間や自然の力を超えた存在を中心に置き、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団』と定義する。

なお、本レビューの立場を明確にすると、神も宗教も否定するものではない。

あくまで神と宗教を自分の都合よく解釈し、運用する側への問題提起である。 


さて、宗教とは何かを考えるにあたって、神とは一体何かという問いは欠かすことはできない。

釈迦が創始した頃の仏教を除くと、ほぼ例外なく宗教には必ず神という公理を前提に置いているからだ。

公理を置き、そこから演繹的に結論を導くというスタイルは、数学でも採用されているものであり、それ自体は特に問題ない。

しかし、公理という概念には、証明せずともそれだけで充分確からしいという前提がついている。

数学の場合、2つの点をつなぐ直線は1本しか存在しないというものだ。

そのため、神の存在がそもそも証明せずとも充分確からしいかというところから始める必要があるが、神の存在が確からしいかという問いは彼らにとっては確からしいものの、我々にとっては疑問である。

そのため、まず初めに宗教について考えるにあたって、神とは一体何なのかという問いから考えたい。


神とは、広辞苑によると『人知を超えた絶対的存在』と定義される。

そのための神の存在とは、古くはトマス・アクィナスの証明のような神の存在証明がある。


リチャード・ドーキンス著 神は妄想である p.117

(引用開始)

神の存在を支持する論証は、何世紀にもわたって神学者たちによって体系化され、誤った「常識」の普及を含めた他の人々によって補完されてきた。

一三世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものである――ただし、彼の高名を考えると、そういったことにためらいを感じはするが――ことがたやすく曝露される。

最初の三つは同じことを異なった言い方で述べているだけなので、いっしょに考察することができる。

これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている――ひとつの問いに対する答えが、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづく、というものだ。

(引用終了)


トマス・アクィナスとは、中世ヨーロッパの神学者であり、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した、神学の集大成と呼ばれる「神学大全」を著した人物である。


彼が主張した五つの神の存在証明は以下である。

1、不動の動者
どんなものも、それに先立って動かすものがいなければ動かない。
これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものが神である。
何かが最初の動きをつくらねばならず、その何か(第一動者)を私たちは神と呼ぶものである。

2、原因なき原因
どんなものも、それ自体によって引き起されることはない。
あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。
これは最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶものである。

3、宇宙論的論証
いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずに違いない。
しかし、物理的な事物が現にいま存在するするのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずに違いなく、それを私たちは神と呼ぶのである。

4、度合いからの論証
私たちは世界の事物に違いがあることに気付いている。
たとえば、善、あるいわ完全さについてはさまざまな度合いがある。
しかし私たちはそうした度合いを最大限のもととの比較によってのみ判断する。
人間は善くも悪くもどちらかでありうるから、最大の善は私たちうちにあるはずがない。
したがって、完全さの基準を定める何らかの最大者がほかに存在しなければならず、その最大者を私たちは神と呼ぶものである。

5、神学的な論証(目的論的論証)
世界の事物、ことに生物は、目的をもって設計されたかのように見える。
私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたように見えるものはない。
したがって設計者が存在したに違いない。
私たちはその設計者を神と呼ぶものである。


これらの論証は全て、今の我々には理解できない現象を、全て神という言葉で一括りにしたにすぎないものである。

また、その裏側には、自分たちは不完全であるが、必ず完全なるものがどこかに存在するという願いにも似た感情が見え隠れする。


しかし、すでに周知なように、完全なるもの、すなわちアプリオリが存在しないことは、すでにゲーデル・チャイティンによって証明されている。

もちろんハイゼンベルグの不確定性原理も同様の見解をもたらすものである。

少し余談になるが、完全性がないということを理解するために、チャイティンが行った不完全性定理の証明風景を簡単に共有する。

彼はLispと呼ばれるコンピュータ言語を用いて、数学全般に不完全性が存在することを証明した。

このとき完全性とは何かを考えると、それはある公理から演繹的に全ての定理が表現可能でということである。

これを逆向きにいえば、定理から帰納的に公理を導くことが可能である。

つまり、全ての対象は何らかの公理がもたらす規則性による拡張によって成り立っていれば、それを逆向きに圧縮すると当然もともとの公理が導けるはずである。

そして、実際にLisp上でプログラムされたコードを走らせたところ、どこまでいっても圧縮できない要素が見つかった。

これがランダム性であり、完全なものが存在しないことの証明である。


話題を戻すが、ではここで世界の本当の姿とは、何かという問いが残る。

なぜなら、アクィナスの神の存在証明からも理解できるように、我々にとって預かり知らないことや説明できないものは、全て神が決定してくれたからである。

つまり、これは神という不動点によって、世界の全てを秩序立てていたということである。

しかし、その不動点がなかったということになれば、今の秩序は一気に崩壊する。
なぜなら、神が存在しない世界とは、世界を確定させる基準点がないがないということを示すものであるからである。

その世界をひとことで言い換えれば、カオスであり、ランダムである。

すなわち、少なくとも我々が期待するような意味は、世界のどこにもないということである。


我々の世界が見い出しいた意味は、全てゲシュタルト能力によるものである。

ゲシュタルトとは、全体と部分の双方向性を持つひとつの意味を持つまとまりのことであり、その各要素自体に特別な意味はない。

我々が観ている、あるいは共有する情報の全ては、このゲシュタルトであり、それは全て何らかの意味を持った対象である。

それがいくつも無限に並んだならば、まるで世界に何かしらの意味や、完全なるものが存在するという錯覚が起こっても不思議ではない。

そして自我そのものもゲシュタルトであり、これは機能として我々の脳はゲシュタルト化を常に行っている。
そのため、ゲシュタルト化自体が悪ということでは一切ない。


何もないところから、どのみち意味を創り出すなら、自分にとって幸福なもの、自分が心の底からほしいと願うものを創ることがいいというのは、当然の帰着である。

これはコーチングにおける、現状の外側へのゴール設定だ。

現状の外側とは、我々が認識する世界(ステータス・クオ)の中からは決して見えない世界のことである。


世界に何の意味がないのなら、創れば良いとの指摘は、至極真っ当なものであるものの、その作業自体は非常に手間と労力のかかるものである。

そして我々は、そのコストを大いに惜しむ。

そこに宗教が長い年月をかけて構築した整合的な高い知性は、とても魅力的に感じられるだろう。

しかし、その論理をそのまま受けれいれることは、ただの思考停止に他ならない。

そういう意味で、宗教とはまさに我々の心が生み出した人類史上最大の妄想である。


幸福とは、自分で見つけ、自分で創り出すものである。

それは他者から与えられるものではない。

コーチングの元祖である故ルー・タイスは、『私が幸せであるのは、私が幸せであることを選んだからだ』という言葉を残している。

我々は他人に与えられるまでもなく、最初から幸福を自分で選び、掴み取れる存在である。


本書をぜひ手に取り、自分が幸福となることを選んでほしい。



















ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


高い自尊心持つことは、コーチングに限らず必須です。
というより高い自尊心をもつことが当たり前の姿であり、自分が自分らしく生きるための前提です。

自尊心が高いというと日本ではあまりいい評価はされません。
自尊心という言葉に、ポジティブな意味を見出している人は少ないのではと推測します。


しかしそれは自尊心の定義が違うから起こるのです。
ルータイスの定義では、自分の社会的位置に対する自己評価のことをいいます。
そして社会的位置という言葉ですが、そこには自分が決めるという意味が入っています。

自尊心を自分で決めることの核心は、自分の眼で見た方向に進むという人間の当たり前の機能に由来します。
子供が自転車に乗ってままならないとき、地面の大きな石を避けようと石ばかりを見ると、不思議と石に衝突します。
F1でもスノボーでも同様で、ぶつかりたくないとぶつかりたくない方向ばかりを見ると、なぜか自分もぶつかる方向に直進します。

このカラクリはシンプルで、見るということは私たちにとっておしなべて重要なことだからです。
脳は重要度の高いものを情報の中から勝手に情報を選出します。
重要であれば、それを求めることは当然です。
脳にとっての争点は重要であるかどうかであって、自分がほしいかどうかではありません。


なら、自分がほしいと望むものを選べばいいという発想は自明です。
社会的位置も自分で決めるのだから、どこの位置に設定してもいいはずです。
そしていうまでもなく、私たちは非日常を日常にすることに興味があるわけで、であるなら社会的位置は高ければ高いほどいいことにつながります。


日本の社会では、謙虚や謙遜が美徳とされるように、他人との関係性を意識しますが、それはマナーの問題であって、自尊心の問題ではありません。
自尊心が高いことと傲慢であることは違います。

すごいことができたなら、心の底から俺ってすごい、私ってすごいでいいのです!

そして最後に生じるものは、自己責任です。
自分で選んだことだから当然です。

大きな自己責任とワンセットで高い自尊心は存在します。

自分でやったことに堂々と責任を持ち、堂々と最大の満足を得る、こういうダイナミックなあり方こそが閉塞化した日本では必要なのではないでしょうか。

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


私たちは地球の中で、地面の上に立って生きます。
重力があるから当たり前です。
ですが、私たちは普段身体に重力がかかっていることに気付いていないし、地球が自転していることも忘れています。

何がいいたいかといえば、ひとつのことを論理的に順序立てて積み上げていくことは、不動点として考えることが有効です。
足元の積み木がグラグラ揺らげば、その上の積み木も当然揺らぎます!
ジェンガのようなイメージです。

そんなジェンガのような現象が、実は私たちの情報空間にも引き起こされます。
私たちの存在は双方向性を持った無限に広がる動的ネットワークの紡ぎ目であるにも関わらず、その紡ぎ目が不動点であると錯覚します。

今の自分が不動点でないならば、当然そこから始めた議論は途中いくらでも変わります。
ほんの少し前の状態で確かに見据えたゴールですが、自分の位置ベクトルに変化があれば、ゴールまでのベクトルも変化します。
もちろん自分の位置ベクトルからほんの少し前のゴールへの方向ベクトルを維持すれば、当然ゴールの位置ベクトルも変わります。
不動点がなく、足元がグラつけば上に伝番することは自明です。


さて、今日のセッションでいわれた印象的な一言は、『めんどくさい人が来てごめんなさい』でした!
そして最後にはスッキリしましたとの一言と、憑き物が取れたような明らかに抽象度の上がった顔になるのが最近の私のコーチングの黄金パターンです。

こうなる理由は簡単で、圧倒的に抽象度の高い空間からそれらを再設計するからです。
抽象度が高いところから落としたときの位置エネルギーの放出が、物理空間に影響を与えるのでした。

また、ここでこういうことを宣言するのも少しおかしな話ですが、めんどくさい人が来るのは歓迎です。
なぜなら私のエフィカシーレベルからすれば、むしろ腕が鳴るぞという感じです。
そしてそういう人ほど変わったと後の振れ幅とインパクトが眼からエネルギーとなってほとばしるのが好きです。

当然悩みやトラウマを持つ人だけでなく、もっと起業したい・圧倒的に強い組織を作りたい等の未来志向の方も歓迎です。
思うに、本物のコーチとは、ルータイスやドクター苫米地英人のようにどんな人が来てもきちんとコーチングできるものです。

ビジネス専門や悩み専門とだけ言っているようでは、私はコーチとしては2流だと思います。
マーケティングという意味で考えるならば、ターゲットが定まっているのでそれはきっと正解でしょう。
また世間のインチキコーチングのように、現状の内側のゴールを具体化し、提言するのはあまりにも勉強不足です。
将来〇〇したいと言って、いつまでに?とかどうやってやる?とか聞いているようではお話になりません。
その程度の質問なら、身近な友達に話しかけるだけでも返ってきます。
このときの友達はもちろんドリームキラーは除きます。

そして言うまでもなく、私のコーチングはもちろん変わりたい人限定です。
人生を変えたい人限定です。

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


私は苫米地式コーチングを学び、苫米地式コーチング認定コーチとして日々コーチングを実践しています。
コーチングはミサイルのレーザーポインターのように、目的を常に指示し、達成へと誘導します。このとき指示する方も指示される方も、体感としてただワクワクしたまま、指示するされるという感覚はなく進んでいく点が素晴らしいところです。

そしてコーチという職業から、やはり世界トップコーチのコーチングに興味があるわけです。世界トップコーチとは間違いなく故ルータイスです。
彼はもうすでにこの世におらず、彼のコーチングを受けることは叶わないわけですが、彼の残した縁起はあります。そして私が個人的に親しいワークス関係者の方で、かつてルーのコーチングを受けた人がおり、そのときの風景を共有してもらったりもしてます。これは他のコーチにない私の強みでしょう。世界のトップコーチとは24時間コーチなのだなと感動したことを今でも鮮明に覚えています。
これは余談ですが、その方にルーの牧場から発掘されたネイティブアメリカンのものと思われる石槍を見せてもらったときは、何とも言えない気持ちが湧き上がりました。


さて、コーチングというものに興味を持つと、どうしてもセルフコーチングなり、コーチング理論を学ぶことに興味が出ます。理由は色々考えられますが、書籍やブログから学ぶにしろ何にしろ、自分で自分のコーチングができれば確かに万々歳です。気持ちはわかります。

しかし理論を学ぶことと、それを実践することはまた別の次元の話です。セルフコーチングを学んだところで、私たちが人間である以上はスコトーマの原理から逃れることはできません。
ルーもそれを認めてます。私たちもこのインパクトはもう少しきちんと理解する必要があるでしょう。

たまに、にわかコーチング実践者(本人はきちんと理解して実践してるつもり)の方にお会いしますが、その人曰くコーチング理論はスコトーマを外すためのものとのことです。つまり自分のスコトーマも外せてしかるべきとの論調です。
私のブログの読者の方は当然ご存じのはずですが、自分でスコトーマを外すということは、自分の現状をきちんと理解できている人です。そしてそれが出来る人は空まで達観した人です。
なら、空まで悟ればとバカのひとつ覚えのように言われますが、空を悟っている人とは、理論上ただの粗大ゴミです。誤解を恐れずいうならば、そもそも社会に機能を果たさないのに、どうして生きている意味があるでしょうか?空を悟ることはどこにいても同じということです。生きていることも死んでいることも同じだから空なのです。


という前提の上で考えたとき、コーチングを学ぶということは、口伝でしかありえないということがわかります。口伝とは私たちの言葉でいえば、場の共有です。
もちろん今まで自分が知りもしなかった世界が観えることもそうですし、単純にブログでは伝わらないような内容もあります。

(引用開始)空海は、すごい 苫米地英人著 P.27

密教とは何か?

(中略)

また、密教は人から人へと伝えられるために、師僧に出会わない限り、その教えの本当の意味を知る事はできません。

その意味でも秘密にされているのです。

歴史上では、空海と最澄のやりとりがとくに有名です。

空海と最澄は804年の遣唐使で、留学層として同時に唐へと渡りました。

最澄は当時すでに桓武天皇の護持僧として確固たる地位を築いてきましたが、空海はまだ無名の一留学僧にすぎませんでした。

ところが、密教を完全な形で持ち帰る事ができたのは空海だけでした。

帰国後の空海と最澄は、経典の貸し借りなどをしていましたが『理趣経』という難解な密教経典の解説書を借りたいという最澄からの申し出を、「空海」は断ります。

なぜ空海が最澄の申し出を断ったのかというと、真偽は不明ですが、最澄はお経を書き写すばかりで、密教の本質を学ぼうとしないと空海が判断したからだと伝わっています。

密教の考え方では、法は、経典のなかにあるのではなく、人から人へしか伝わらないとされています。

(引用終了)



つまり本質とは常に人から人へと移るものなのです。

そして表題にもあるよう、あなたのために言いますが、ブログや読書だけでコーチングは学べません。
英語を学ぶためにはどうすべきか、バレエを学ぶだめにはどうすべきかを考えると全く同じです。コーチングだけが違うという理由はありません。

教科書だけを読む人と、きちんと指導してもらったグループとの比較が、どこかの研究であったはずですが、その結果は想像通りです。

空海ついでに彼の教えを引用すると、良い師がいなければ世界のどこえでも行きなさい、です。
そしてその向こう側に、師がもつもっと大きな風景が観えるといいですね。
良い師に出会えることを祈っています。

最後に私の好きな空海の言葉を引用して、この場を締めくくりましょう。彼のゴールの風景はとてつもないといつも感心します。


虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん。

Kukai2

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