苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:ステータス・クオ

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


現状とは、私たち苫米地式コーチングの流派において、ステータス・クオと表現します。

現状という言葉を聞くと、日本語の意味が現在の状態やありさまというものなので、今のこの現在という一点だけを指しているように感じます。

しかし、私たちが主張する現状(ステータス・クオ)とは、これからやってくる未来のことも含んでいます。

もっとざっくり言ってしまえば、コンフォートゾーンの原理に従い、未来永劫同じところに居続けてしまうということです。


そのように考えたとき、時間は何も解決しないことがわかります。

心の病などで時間が経てば解決の見込みがある、ないしは待つということが大切という場合も多々ありますが、少なくとも私たちが直面するケースはそうでないことが大半です。

いわばステータス・クオの外側へ向かう最中なのか、そうでないのかという視点は極めて重要なポイントとなるでしょう!

そして外側へ飛び出すときに必要になのは、ゴールの設定とエフィカシーの高さです。


ここで率直に良くあるケースとして、本人はステータス・クオの外側に出ようとしているつもりなのに、実はステータス・クオのど真ん中の行動をしている場合がよくあります。

自分はそんな現状を変えようと必死になっているにも関わらず、全く成果が出ないことへの焦りとイラ立ちがつのりますが、実際はステータス・クオに留まる努力を必死に取っているので、ちゃんとステータス・クオに留まる結果が付いてきています。

良いか悪いかは別にして、正当な努力に対する、正当な結果が還って来ています。


さて、こんなパターンから脱すために、必要なことは何かといえば、それはもちろん正しい現状の認識です。

もちろん家族でも友人でもプロのコーチでも、わかっていない人にはきちんと指摘することが重要だと思っています。

しかし、残念ながら本人からすればそうように感じません。

今までの自分の努力や苦労やかけた時間は何だったのか、悪態をつくことを通り越して自暴自棄に陥ります。

もちろん地の底まで落とされたとき、逆に自分は間違っていないと、そんなことはないと怒りが飛び出すひともいるでしょう。


日本では、言わぬが花という言葉があるように、正しい指摘を基本的に嫌います。

なので、実際それをエフィカシーが下がることではないか、下げてしまうのではないかと懸念されますが、私個人はそうでないと思っています。

なぜなら、正しい現状認識から始まり、そこから外側へ向けて方向転換すればいいからです。

ステータス・クオに内側と外側しかない以上、内側がわかれば外側がわかります。

今大阪にいることがわかれば、東京まで行くことは可能です。
もちろん、新幹線でも飛行機でも夜行バスでも構いません。

しかし、今どこにいるのかもわからないのに、東京まで行くことは不可能です。


エフィカシーでもセルフエスティームでもなく、そこでついつい変なプライドを持ってしまいます。

本当は逆向きです。

エフィカシーとセルフエスティームを持つべきで、変なプライドは捨てていくべきです。

プライドは何の役にも立ちません。

プライドが満たされて喜ぶのは、自分のちっぽけな自尊心のみです。


ゴールに向かうということは、ステータス・クオの外側に飛び出しコンフォートゾーンを変えていくことです。

コンフォードゾーンを変えていくこということは、評価関数(自我)を変えていくということです。


現状を知ることは、エフィカシーを下げることでもなんでもなく、ただのスタートです。

自分がどこにいるかのをきちんと知って、ゴール側に飛び出しましょう!


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『人はなぜ、宗教にハマるのか?』

本書は、ひとと宗教の歴史との関わりを明らかにし、これからのひとと宗教の未来のあり方に鋭く切り込んだ著書である。


宗教とは一体何かという問いは、一見初歩的な内容であるにも関わらず、その問いに答えることは極めて難しい。

なぜなら、宗教には必ず神という存在を前提としているからである。

神という我々の眼に観えない、存在の有無に様々な議論を呼ぶ概念が中心に来る以上、そこから要請されるシステムに当然差分が生まる。

もちろん、個別の宗教という意味では、それぞれに神が存在し、その神から演繹的にとても緻密な論理が積み上げられている。
そのため、神の存在そのものが証明されているという点を除けば、その宗教体系自体はとても整合的に完成されている。

いうまでもなく、歴史的に長い時間をかけて生き残ってきた宗教ほど、この傾向は顕著である。


しかし、宗教がいかに完成されたものであったとしても、その存在によって、様々な問題が起きていることも事実である。

例えば、自爆テロ、十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、インド・パキスタン分離独立、イスラエル・パレスチナ戦争などがこれにあたる。

宗教の本来の目的は、一重に人々の幸福追及であるが、その背景にはその宗教の信仰を持つ人という大前提があり、信仰を持たないものは人間ではないという摩訶不思議な論理が跳梁跋扈する。


これは、宗教という存在が物理空間における支配・制約を受けず、情報空間における整合的な広がりのみを重点を置いているからだと考えられる。

それ自体が、如何に整合的なのもであろうとも、それが本来の目的を達成するものであるかという俯瞰した視点は常に必要である。

もちろん、釈迦やイエスの頃はおそらく本気で我々の幸福を願っていたと思われ、そして現在も本質的にはそうであると思われる。
しかし、残念ながら時代とともにひとも宗教も様々な影響を受け、変化を迫られる。

他にもリーダーが変わるとき、組織の在り方に必ず変化が生まれることは、現代の会社組織とも比較しても何ら変わらない。
宗教の場合、分派という言葉で現される。

以上をまとめて、宗教をこの場では、『人間や自然の力を超えた存在を中心に置き、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団』と定義する。

なお、本レビューの立場を明確にすると、神も宗教も否定するものではない。

あくまで神と宗教を自分の都合よく解釈し、運用する側への問題提起である。 


さて、宗教とは何かを考えるにあたって、神とは一体何かという問いは欠かすことはできない。

釈迦が創始した頃の仏教を除くと、ほぼ例外なく宗教には必ず神という公理を前提に置いているからだ。

公理を置き、そこから演繹的に結論を導くというスタイルは、数学でも採用されているものであり、それ自体は特に問題ない。

しかし、公理という概念には、証明せずともそれだけで充分確からしいという前提がついている。

数学の場合、2つの点をつなぐ直線は1本しか存在しないというものだ。

そのため、神の存在がそもそも証明せずとも充分確からしいかというところから始める必要があるが、神の存在が確からしいかという問いは彼らにとっては確からしいものの、我々にとっては疑問である。

そのため、まず初めに宗教について考えるにあたって、神とは一体何なのかという問いから考えたい。


神とは、広辞苑によると『人知を超えた絶対的存在』と定義される。

そのための神の存在とは、古くはトマス・アクィナスの証明のような神の存在証明がある。


リチャード・ドーキンス著 神は妄想である p.117

(引用開始)

神の存在を支持する論証は、何世紀にもわたって神学者たちによって体系化され、誤った「常識」の普及を含めた他の人々によって補完されてきた。

一三世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものである――ただし、彼の高名を考えると、そういったことにためらいを感じはするが――ことがたやすく曝露される。

最初の三つは同じことを異なった言い方で述べているだけなので、いっしょに考察することができる。

これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている――ひとつの問いに対する答えが、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづく、というものだ。

(引用終了)


トマス・アクィナスとは、中世ヨーロッパの神学者であり、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した、神学の集大成と呼ばれる「神学大全」を著した人物である。


彼が主張した五つの神の存在証明は以下である。

1、不動の動者
どんなものも、それに先立って動かすものがいなければ動かない。
これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものが神である。
何かが最初の動きをつくらねばならず、その何か(第一動者)を私たちは神と呼ぶものである。

2、原因なき原因
どんなものも、それ自体によって引き起されることはない。
あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。
これは最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶものである。

3、宇宙論的論証
いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずに違いない。
しかし、物理的な事物が現にいま存在するするのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずに違いなく、それを私たちは神と呼ぶのである。

4、度合いからの論証
私たちは世界の事物に違いがあることに気付いている。
たとえば、善、あるいわ完全さについてはさまざまな度合いがある。
しかし私たちはそうした度合いを最大限のもととの比較によってのみ判断する。
人間は善くも悪くもどちらかでありうるから、最大の善は私たちうちにあるはずがない。
したがって、完全さの基準を定める何らかの最大者がほかに存在しなければならず、その最大者を私たちは神と呼ぶものである。

5、神学的な論証(目的論的論証)
世界の事物、ことに生物は、目的をもって設計されたかのように見える。
私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたように見えるものはない。
したがって設計者が存在したに違いない。
私たちはその設計者を神と呼ぶものである。


これらの論証は全て、今の我々には理解できない現象を、全て神という言葉で一括りにしたにすぎないものである。

また、その裏側には、自分たちは不完全であるが、必ず完全なるものがどこかに存在するという願いにも似た感情が見え隠れする。


しかし、すでに周知なように、完全なるもの、すなわちアプリオリが存在しないことは、すでにゲーデル・チャイティンによって証明されている。

もちろんハイゼンベルグの不確定性原理も同様の見解をもたらすものである。

少し余談になるが、完全性がないということを理解するために、チャイティンが行った不完全性定理の証明風景を簡単に共有する。

彼はLispと呼ばれるコンピュータ言語を用いて、数学全般に不完全性が存在することを証明した。

このとき完全性とは何かを考えると、それはある公理から演繹的に全ての定理が表現可能でということである。

これを逆向きにいえば、定理から帰納的に公理を導くことが可能である。

つまり、全ての対象は何らかの公理がもたらす規則性による拡張によって成り立っていれば、それを逆向きに圧縮すると当然もともとの公理が導けるはずである。

そして、実際にLisp上でプログラムされたコードを走らせたところ、どこまでいっても圧縮できない要素が見つかった。

これがランダム性であり、完全なものが存在しないことの証明である。


話題を戻すが、ではここで世界の本当の姿とは、何かという問いが残る。

なぜなら、アクィナスの神の存在証明からも理解できるように、我々にとって預かり知らないことや説明できないものは、全て神が決定してくれたからである。

つまり、これは神という不動点によって、世界の全てを秩序立てていたということである。

しかし、その不動点がなかったということになれば、今の秩序は一気に崩壊する。
なぜなら、神が存在しない世界とは、世界を確定させる基準点がないがないということを示すものであるからである。

その世界をひとことで言い換えれば、カオスであり、ランダムである。

すなわち、少なくとも我々が期待するような意味は、世界のどこにもないということである。


我々の世界が見い出しいた意味は、全てゲシュタルト能力によるものである。

ゲシュタルトとは、全体と部分の双方向性を持つひとつの意味を持つまとまりのことであり、その各要素自体に特別な意味はない。

我々が観ている、あるいは共有する情報の全ては、このゲシュタルトであり、それは全て何らかの意味を持った対象である。

それがいくつも無限に並んだならば、まるで世界に何かしらの意味や、完全なるものが存在するという錯覚が起こっても不思議ではない。

そして自我そのものもゲシュタルトであり、これは機能として我々の脳はゲシュタルト化を常に行っている。
そのため、ゲシュタルト化自体が悪ということでは一切ない。


何もないところから、どのみち意味を創り出すなら、自分にとって幸福なもの、自分が心の底からほしいと願うものを創ることがいいというのは、当然の帰着である。

これはコーチングにおける、現状の外側へのゴール設定だ。

現状の外側とは、我々が認識する世界(ステータス・クオ)の中からは決して見えない世界のことである。


世界に何の意味がないのなら、創れば良いとの指摘は、至極真っ当なものであるものの、その作業自体は非常に手間と労力のかかるものである。

そして我々は、そのコストを大いに惜しむ。

そこに宗教が長い年月をかけて構築した整合的な高い知性は、とても魅力的に感じられるだろう。

しかし、その論理をそのまま受けれいれることは、ただの思考停止に他ならない。

そういう意味で、宗教とはまさに我々の心が生み出した人類史上最大の妄想である。


幸福とは、自分で見つけ、自分で創り出すものである。

それは他者から与えられるものではない。

コーチングの元祖である故ルー・タイスは、『私が幸せであるのは、私が幸せであることを選んだからだ』という言葉を残している。

我々は他人に与えられるまでもなく、最初から幸福を自分で選び、掴み取れる存在である。


本書をぜひ手に取り、自分が幸福となることを選んでほしい。



















ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


私たちはこの世に生を受けた以上、ひとつやふたつのトラウマや心の弱さはあるものです。

数学が苦手ということであるのなら、物理的に問題集やドリルを繰り返すことで克服が可能です。

しかし、心の問題となると、外科的なアプローチはあまり有効ではありません。

そういったものの解決は基本的に難しく、嫌なものは見ない聞かないの原則通り、ついつい脳がそれらを意識から外します。

自身を守るための防衛本能のようなものかもしれません。

そして仮に認識できても、それらの扱い方は全く分からず、普通思考停止に陥ります。

思考停止といえばまるで何も考えていないように観えますが、実際は膨大な計算をずっと脳内で続けています。

計算が終わらず、結果が出せないから、あたかも何も考えていないように表面ではフリーズするわけです。

『わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ』といったのは、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーでしたが、苦悩して苦しみぬいてこそ、初めて観える風景があることもまた事実です。

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@銃殺刑を免れたドストエフスキー


(引用開始) 夜と霧 p.118

新たに送り込まれた人びとは、収容所についたとき、そこを支配している状況を何ひとつ理解していなかった。

そこから出てきたひとは沈黙せざるえなかったし、ある収容所にいたっては、まだ誰も戻ってきた人もいないかった・・・。

収容所に一歩足を踏み入れると、心内風景は一変する。

不確定性が終わり、終わりが不確定になる。

こんなありように終わりはあるのか、あるとしたらそれはいつか、見極めがつかなくなることだ。

(引用終了)



内なる自分のトラウマや弱さということにピンと来なくとも、私たちはみな例外なく塀のなかを生きています。

それこそ明らかに金銭的にも物資的にも豊かさの増した現代ですが、心の豊かさはむしろ減っています。

これらの塀はアウシュビッツ収容所のように物理的に見れれば問題ありませんが、実際は眼に観えず、塀がどこにあるかどうかもわかりません。

そんな塀のなかに捉えられると、いつかは外へ出られるという淡い期待が、ただの絶望に成り果てます。

そして無限のルーティンワークが始り、永遠を支配します。


(引用開始) 夜と霧 p.121

現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、墜落することにつながった。

なにしろ「目的なんてない」からだ。

このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。

収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とするかわりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、非本来的な何かなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考える。

このような人間に成長は望めない。

被収容者として過ごす時間がもたらす過酷さのもとで高いレベルへと飛躍することはないのだ。

その可能性は、原則としてあった。

もちろんそんなことが出来るのは、ごく限られた人びとだった。

しかし彼らは、外面的には破綻し、死すらも避けられない状況であってなお、人間としての崇高さに達したのだ。

ごく普通のありようをしていた以前なら、彼らにしても可能ではなかったかもしれない崇高さに。

(引用終了)



絶望を投げ捨てず、絶望を絶望としてきちんと受け止めることができたとき、ひとは初めて次のフィールドに行けるという事実は、自己啓発至上主義者らの手垢でベトベトにされ、正直あまり触れたいものではありません。

ですが、観たいものなかには自身のステータス・クオを強化するものしかないのも事実です。

なぜなら、現状はステータス・クオの延長線上に存在し、これまでステータス・クオ上の選択をしてきたからです。

違う未来を望むなら、外側の選択が必要なことはいうまでもありません。

例えそれが地獄めぐりになろうとも。


自分の弱さと向き合うとは、パンドラの箱を開けることに似ている思います。

パンドラの箱を開けたなら、そこからはたくさんの不幸が出てきます。

しかし、最後には希望という光が残っています。


自分の弱さと向き合った向こう側で、別の境地を観えるとは、冷静に論理を追うと、存外嫌いではありません。

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※塀の外へ突き抜けろ!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ゴール設定という言葉を、私たちは往々にして目標という意味として使います。

もちろん日本語としての意味は正解ですが、コーチングとしては不正解です。

何故なら目標という言葉には、『到達可能な』というニュアンスが含まれており、それは現状の内側を表しています。

そしていうまでもなく、サッカーのワールドカップで1位を目指して4位になることがあっても、4位を目指して1位になることが出来ないように、ゴール以上の結果を出すことは普通は不可能な事象です。

またゴールがなければ、私たちは何処へも行くことができません。


という前提で考えたとき、ゴール設定は『生き方』と言い換えた方が訳として適切な気がします。

ただ生き方とだけいうとぼんやりしますが、『自分だけの』とか『生涯にわたって』と形容するともう少しクッキリするでしょう。

自分の生き方を自分で考え、自分で決断し行動するとなると、ゴール設定の重要性がより深く落ちてきます。


仏教哲学からみれば、自分の生き方という言葉で言い換えたとき、それは中観といえると思います。

中観とは全ては空であることを理解し、そこに機能を持たせることですが、空に機能を持たせて歩んでいく姿はまさに生き方そのものです。

全ての事象が縁起によるネットワークの紡ぎ目で、眼の前の出来事全てがただの紡ぎ目であるとだけ理解していると、人生が無意味なただの傍観に収まります。

かといって機能だけに着目すれば、それは金融資本主義の奴隷に成り果てます。

中観とはその間を取ることです。

両方の眼を獲得することで、始めて観える風景が存在します。

空と仮との無限に存在するグレーゾーンの中から、どこに自分のポジショニングを置くかが、ポジジョンを選ぶことが中観を生きていくということです。


現状の外側の生き方。

こういういい方をするならば、よりビビッドに私たちは自分の人生に向き合えます。

こういういい方をするならば、他人ではなく人生の主役は自分であるという当然の事実に納得します。


そうしてようやく自分の足で立ち、自分の人生を歩きはじめることが可能です。

自分の人生とは今は観えないステータス・クオの外側です。

自分できちんと選んだなら、そこに初めて自己責任を持つことができ、自分らしい人生を初めて謳歌することができるでしょう。

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※最初のスタートはいつもここから!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


『神は自分である』とは、なかなかに中二くさい発言です!

今日は、大学・大学院時代のお世話になった先輩が東京に来たというので、一緒にご飯を食べてきました!

なんとういか、先輩も非常にお変わりなく、楽しくも懐かしい時間を過ごすことが出来ました!
お酒は基本の飲みませんが、その人は非常にお酒が好きなので、その時だけは少し解禁です。


さて、苫米地式コーチングの『過去は関係ない』という言葉を、少しわかりやすく誇張していうと、過去に眼を瞑って盲目的に生きなさいという言葉であると解釈しているのではないかと思う方にたまに出会います。

もちろん、コーチングにおいて過去は関係ありませんし、ましてや未来の輝かしい自分にとっても全く関係がありません。
過去の愚かさと、未来の功績は何も関係ないのです。

しかし、私たちのものの認知の仕方も、ものの判断の仕方も過去に則るように出来ています。
というより過去の差分で私たちも物事を捉えます。

なのでどうしても必然的に、現在も未来も、過去の経験が自分の眼の前にちらつきます。

そして人によっては、そのまま過去に囚われます。

囚われるという言葉は、もちろんにっちもさっちもいかなくなるという重度のところから、過去の経験から今やろうとしているこれは失敗するといった何気なく日頃から行う未来への推論もそこに含まれます。

確かにこれでは未来も全てスコトーマに隠れてしまうでしょう。

また、だからといって全ての過去に眼を瞑れば、私たちに学習というものの必要性がなくなります。

過去に蓄積されたデータベースと参照することで、私たちは今の生活を便利をしているのも事実です。
科学進歩によるプロダクトもそうですし、家の近所で慣れた道だからこそ、別の道を使ったり、そのまま目的地までの最短経路を割り出せたりもします。


過去は関係ないという言葉は非常に難しい概念です。


今上記でざっくり並べた二項対立はそれぞれ、どちらともいえるし、どちらともいえないことです。

これらをきっちり結論を決めようにも、パラメータが多すぎることは想像に難くないでしょう。
いわゆる計算量の爆発です。


しかし私たちはそんな深淵なる問いに対して、一応なりとも結論を得ています。
結論を出しているからこそ、行動し、今のような現状にあるわけです。

その決め手は、何かと考えたとき、議論もへったくれないように聞こえますが、それは『ただの決めの問題』のように感じます。

どちらか片方をヒューリスティックでいいので決めるという方法を私たちは採用しているという意味です。

その所業はまるで神のような気がします。
もちろんその神の決めという判断は、明らかに不完全なものです。
硬直を避けるための代替案です。

そして面白いのは、その決めは明らかに自分の意思であるということです。
それは内部表現という自分だけの世界の中では、絶対のように振る舞います。

まさに神の一声です!

そう考えても、一人一宇宙の概念はその通りだと思います。

この仕組みを理解して、その選択権のいい加減さに嫌気が指すか、それとも何者にでもなれることへの幸運を確信するかはコインの裏表のよう関係です。

どちらを選ぶのも、自分の意思といえるでしょう。

自分が神であるならば、このコイントスのイカサマもありなのではないかなと思います!

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@イカサマといえばダービー


もちろんその選択に魂を賭ける必要はありませんw

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