苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:ゲーデルの不完全性定理

『人はなぜ、宗教にハマるのか?』

本書は、ひとと宗教の歴史との関わりを明らかにし、これからのひとと宗教の未来のあり方に鋭く切り込んだ著書である。


宗教とは一体何かという問いは、一見初歩的な内容であるにも関わらず、その問いに答えることは極めて難しい。

なぜなら、宗教には必ず神という存在を前提としているからである。

神という我々の眼に観えない、存在の有無に様々な議論を呼ぶ概念が中心に来る以上、そこから要請されるシステムに当然差分が生まる。

もちろん、個別の宗教という意味では、それぞれに神が存在し、その神から演繹的にとても緻密な論理が積み上げられている。
そのため、神の存在そのものが証明されているという点を除けば、その宗教体系自体はとても整合的に完成されている。

いうまでもなく、歴史的に長い時間をかけて生き残ってきた宗教ほど、この傾向は顕著である。


しかし、宗教がいかに完成されたものであったとしても、その存在によって、様々な問題が起きていることも事実である。

例えば、自爆テロ、十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、インド・パキスタン分離独立、イスラエル・パレスチナ戦争などがこれにあたる。

宗教の本来の目的は、一重に人々の幸福追及であるが、その背景にはその宗教の信仰を持つ人という大前提があり、信仰を持たないものは人間ではないという摩訶不思議な論理が跳梁跋扈する。


これは、宗教という存在が物理空間における支配・制約を受けず、情報空間における整合的な広がりのみを重点を置いているからだと考えられる。

それ自体が、如何に整合的なのもであろうとも、それが本来の目的を達成するものであるかという俯瞰した視点は常に必要である。

もちろん、釈迦やイエスの頃はおそらく本気で我々の幸福を願っていたと思われ、そして現在も本質的にはそうであると思われる。
しかし、残念ながら時代とともにひとも宗教も様々な影響を受け、変化を迫られる。

他にもリーダーが変わるとき、組織の在り方に必ず変化が生まれることは、現代の会社組織とも比較しても何ら変わらない。
宗教の場合、分派という言葉で現される。

以上をまとめて、宗教をこの場では、『人間や自然の力を超えた存在を中心に置き、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団』と定義する。

なお、本レビューの立場を明確にすると、神も宗教も否定するものではない。

あくまで神と宗教を自分の都合よく解釈し、運用する側への問題提起である。 


さて、宗教とは何かを考えるにあたって、神とは一体何かという問いは欠かすことはできない。

釈迦が創始した頃の仏教を除くと、ほぼ例外なく宗教には必ず神という公理を前提に置いているからだ。

公理を置き、そこから演繹的に結論を導くというスタイルは、数学でも採用されているものであり、それ自体は特に問題ない。

しかし、公理という概念には、証明せずともそれだけで充分確からしいという前提がついている。

数学の場合、2つの点をつなぐ直線は1本しか存在しないというものだ。

そのため、神の存在がそもそも証明せずとも充分確からしいかというところから始める必要があるが、神の存在が確からしいかという問いは彼らにとっては確からしいものの、我々にとっては疑問である。

そのため、まず初めに宗教について考えるにあたって、神とは一体何なのかという問いから考えたい。


神とは、広辞苑によると『人知を超えた絶対的存在』と定義される。

そのための神の存在とは、古くはトマス・アクィナスの証明のような神の存在証明がある。


リチャード・ドーキンス著 神は妄想である p.117

(引用開始)

神の存在を支持する論証は、何世紀にもわたって神学者たちによって体系化され、誤った「常識」の普及を含めた他の人々によって補完されてきた。

一三世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものである――ただし、彼の高名を考えると、そういったことにためらいを感じはするが――ことがたやすく曝露される。

最初の三つは同じことを異なった言い方で述べているだけなので、いっしょに考察することができる。

これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている――ひとつの問いに対する答えが、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづく、というものだ。

(引用終了)


トマス・アクィナスとは、中世ヨーロッパの神学者であり、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した、神学の集大成と呼ばれる「神学大全」を著した人物である。


彼が主張した五つの神の存在証明は以下である。

1、不動の動者
どんなものも、それに先立って動かすものがいなければ動かない。
これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものが神である。
何かが最初の動きをつくらねばならず、その何か(第一動者)を私たちは神と呼ぶものである。

2、原因なき原因
どんなものも、それ自体によって引き起されることはない。
あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。
これは最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶものである。

3、宇宙論的論証
いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずに違いない。
しかし、物理的な事物が現にいま存在するするのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずに違いなく、それを私たちは神と呼ぶのである。

4、度合いからの論証
私たちは世界の事物に違いがあることに気付いている。
たとえば、善、あるいわ完全さについてはさまざまな度合いがある。
しかし私たちはそうした度合いを最大限のもととの比較によってのみ判断する。
人間は善くも悪くもどちらかでありうるから、最大の善は私たちうちにあるはずがない。
したがって、完全さの基準を定める何らかの最大者がほかに存在しなければならず、その最大者を私たちは神と呼ぶものである。

5、神学的な論証(目的論的論証)
世界の事物、ことに生物は、目的をもって設計されたかのように見える。
私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたように見えるものはない。
したがって設計者が存在したに違いない。
私たちはその設計者を神と呼ぶものである。


これらの論証は全て、今の我々には理解できない現象を、全て神という言葉で一括りにしたにすぎないものである。

また、その裏側には、自分たちは不完全であるが、必ず完全なるものがどこかに存在するという願いにも似た感情が見え隠れする。


しかし、すでに周知なように、完全なるもの、すなわちアプリオリが存在しないことは、すでにゲーデル・チャイティンによって証明されている。

もちろんハイゼンベルグの不確定性原理も同様の見解をもたらすものである。

少し余談になるが、完全性がないということを理解するために、チャイティンが行った不完全性定理の証明風景を簡単に共有する。

彼はLispと呼ばれるコンピュータ言語を用いて、数学全般に不完全性が存在することを証明した。

このとき完全性とは何かを考えると、それはある公理から演繹的に全ての定理が表現可能でということである。

これを逆向きにいえば、定理から帰納的に公理を導くことが可能である。

つまり、全ての対象は何らかの公理がもたらす規則性による拡張によって成り立っていれば、それを逆向きに圧縮すると当然もともとの公理が導けるはずである。

そして、実際にLisp上でプログラムされたコードを走らせたところ、どこまでいっても圧縮できない要素が見つかった。

これがランダム性であり、完全なものが存在しないことの証明である。


話題を戻すが、ではここで世界の本当の姿とは、何かという問いが残る。

なぜなら、アクィナスの神の存在証明からも理解できるように、我々にとって預かり知らないことや説明できないものは、全て神が決定してくれたからである。

つまり、これは神という不動点によって、世界の全てを秩序立てていたということである。

しかし、その不動点がなかったということになれば、今の秩序は一気に崩壊する。
なぜなら、神が存在しない世界とは、世界を確定させる基準点がないがないということを示すものであるからである。

その世界をひとことで言い換えれば、カオスであり、ランダムである。

すなわち、少なくとも我々が期待するような意味は、世界のどこにもないということである。


我々の世界が見い出しいた意味は、全てゲシュタルト能力によるものである。

ゲシュタルトとは、全体と部分の双方向性を持つひとつの意味を持つまとまりのことであり、その各要素自体に特別な意味はない。

我々が観ている、あるいは共有する情報の全ては、このゲシュタルトであり、それは全て何らかの意味を持った対象である。

それがいくつも無限に並んだならば、まるで世界に何かしらの意味や、完全なるものが存在するという錯覚が起こっても不思議ではない。

そして自我そのものもゲシュタルトであり、これは機能として我々の脳はゲシュタルト化を常に行っている。
そのため、ゲシュタルト化自体が悪ということでは一切ない。


何もないところから、どのみち意味を創り出すなら、自分にとって幸福なもの、自分が心の底からほしいと願うものを創ることがいいというのは、当然の帰着である。

これはコーチングにおける、現状の外側へのゴール設定だ。

現状の外側とは、我々が認識する世界(ステータス・クオ)の中からは決して見えない世界のことである。


世界に何の意味がないのなら、創れば良いとの指摘は、至極真っ当なものであるものの、その作業自体は非常に手間と労力のかかるものである。

そして我々は、そのコストを大いに惜しむ。

そこに宗教が長い年月をかけて構築した整合的な高い知性は、とても魅力的に感じられるだろう。

しかし、その論理をそのまま受けれいれることは、ただの思考停止に他ならない。

そういう意味で、宗教とはまさに我々の心が生み出した人類史上最大の妄想である。


幸福とは、自分で見つけ、自分で創り出すものである。

それは他者から与えられるものではない。

コーチングの元祖である故ルー・タイスは、『私が幸せであるのは、私が幸せであることを選んだからだ』という言葉を残している。

我々は他人に与えられるまでもなく、最初から幸福を自分で選び、掴み取れる存在である。


本書をぜひ手に取り、自分が幸福となることを選んでほしい。



















『ドクター苫米地の新福音書』

本書は自由意思とは何かという壮大なテーマから「自分らしく生きる」ことに言及した著書である。 

自由意思という概念を、機能脳科学、現代数学、現代物理学、現代分析哲学、計算機科学等の学問から一望した内容は、壮観の一言である。
  


自由意思とは何かについて言及するには、自我についての定義が必要である。

なぜなら自由意思とは、広辞苑にて「他から束縛されず自らの責任において決定する意思」と定義されるように、自我のうちから出てくるものであるからだ。

いうまでもなく「自分らしさ」も、自我や自由意思から要請される。

私たちが「自我」という対象を考えるとき、それは往々にして意識のことを指す。

これは、『「わたし」とは何か?』というおそらく多感な子供時代に誰もが考えたであろう極めて普遍的な問いである。

我々は今ここにいる意識のことを、デカルトが方法序説で書き記したように、疑いようのない絶対的な存在であると考える。
なぜなら、意識について考えれば考えるほど、それに比例して意識するという行為が浮き彫りになるからである。

しかし、これは冷静に考えるととても不思議な論理であることに気付く。

なぜなら、「意識とは何か」について「意識」で考えているからである。

例えるなら、精神科医が自分の精神状態を診断し、精神異常の有無を判断しているに等しい。

普通精神異常を自分で知覚できないことは、想像に難くない。

今このブログに映る視覚情報も、マウスに触れる触覚情報も、PCの冷却ファンが放つ聴覚情報も、今ここにある自我を経験的に確からしめるように思えるが、それは自我のアプリオリ証明となる明確な根拠にはなりえない。

なぜなら、意識がない状態をどのように意識するのかという本質的な自己矛盾を持つからである。
例えば頭が留守となる場合があることを我々は経験的に知っており、それは無意識状態である。

無意識を意識することはできない。


さて、自我を定義するにあたって、認知神経科学の観点から考える。

先に結論を述べれば、自我は存在しないという結果が、最近の認知神経科学の研究では揃いつつある。

マイケル・S・ガザニガ著 〈わたし〉はどこにあるのか p.160~161

(引用開始)

意識の時間差に25年も前から繰り返し報告されてきた。

カルフォルニア大学サンフランシスコ校の生理学者ベンジャミン・リベットは、神経外科手術の最中、覚醒している患者の脳に刺激を与えてみた。

そこは手を担当する領域だったにも関わらず、患者が手に感覚を覚えるまでに時間差があった。

その後の実験では、行動開始に関わる脳の活動が、実際の行動の0.5秒前に起こってことがわかったが、これは当然だろう。

驚いたのは、被験者が行動を言度する0.3秒前から、脳内では関連する活動がすでに高まっていたことだ。

(中略)


2008年、ジョン=ディラン・ヘインズを中心とする研究グループは、こうした最新技術を活用してリベットの実験をさらに発展させた。

そしてある傾向が生じるときは、それが意識にのぼる10秒も前から脳にコード化されていることを突き止めたのだ。

脳はその持ち主が意識する前から活動していた。

それどころか、脳のスキャン画像から次の行動が予測できてしまう。これは衝撃的だ。

本人がその欲求を意識する前から、行動が無意識に始まっているのだとすれば、意志の原因としての意識の役割はなくなり、行動を起こそうとする意識的な意志はただの幻想となる。 

(引用終了)

※ジョン=ディラン・ヘインズらの研究参照はこちらから


私たちの頭の中の思考、五感を通して得られる情報は全て、脳の中の電気信号でやり取りされる。
 

このとき電気信号のやり取りを単純化するならば、入力⇒脳(演算)⇒出力という3層で表せる。


ここでいう入力とは五感から得られる情報や感情であり、出力とは実際の思考や行動のことを指す。


我々が意識と呼ぶのは、上引用からも理解できるように出力にカテゴライズされるものでる。


余談であるが、この事実はジュリアン・ジェインンズのバイキャメラルマインド(二分心)とも符合する。


脳が大脳辺縁系、新皮質と進化とともに徐々に拡大し、その処理能力が向上していった歴史のなかで、意識も生まれきたのならば、出力結果であることにも確かに納得がいく。


なお、バイキャメラルマインドとは、意識は先天的に備わっていたものではなく、進化の過程で後から生まれたものであるという仮説である。


意識が出力結果であるならば、我々の自由意思は何処にあるのかという疑問が残る。

そして、これらの実験結果だけを素直に踏まえるならば、我々に自由意思はないといえる。


すなわち、我々の意識とは、脳という計算機から投影されたホログラムのようなものであり、ホログラムが自分に実体があると錯覚しているにすぎないということである。



では我々は自由意思をどのように捉えるべきだろうか。


認知神経科学の知見を用いて、もう一度自我について考たい。
 

ここでは、左脳の機能に着目する。


左脳とは主に計算や言語・発話といった知的行動が専門であると考えられている。

他にも重要な機能として、統一がとれた対象への意味付けを行う。


この事実をもう少し深掘りするために、ガザニガ教授が実際に行った分離脳患者の事例を取り上げる。
 

分離脳患者とは、左脳と右脳をつなぐ脳梁が切断された患者である。

例えば、てんかんを持つ患者は、最後の治療法として外科的に脳梁を切断することがある。

てんかんとは、突然発生する脳内の電気的興奮により、発作を繰り返す慢性的な脳疾患である。
このとき、脳内の電気的興奮が発作の原因であるから、物理的に電気信号が通る個所を切断することで、発作の発生を抑える。

この治療法は事実効果があり、発作自体はほぼなくなる。
そして、患者も特に後遺症がなく、手術前とほとんど生活も変わらない。
 

しかし、このとき分離脳患者は物理的に脳梁を切断されたことで、左脳と右脳がそれぞれ独立し、情報のやり取りがないことは自明である。

そのため、左脳は右半身を、右脳は左半身をコントロールしているが、左目で観たもの(右脳で知覚)は何かと分離脳患者に問うと、彼らは何も観えないと答えるという奇妙な現象が起こる。 


それを踏まえ、今度は右視野(左脳)には、ニワトリの足の写真を、左視野(右脳)には雪景色の写真を見せる。

続いて、一連の写真の中から前の写真と関連のあるものを左右の視野にそれぞれ選んでもらう。

左手(右脳)は雪景色に対応するショベルを選び、右手(左脳)はニワトリを指した。

その後、言語野を持つ左脳に、左手はなぜショベルの写真を持っているのかと問うと、平然と「ニワトリ小屋を掃除するのにショベルが必要だ」と答えたのである。 


回答内容に違和感があることもそうだが、ここでもう一度左脳と右脳は情報を交換していないことを思い出したい。

つまり、左脳は右脳が何を見て、ショベルを選んだのか知らないのである。 

そこで今現代左脳が持っているニワトリの足に関連する写真を選ぶという情報と、左手に持つショベルという全く関連性のない情報を、非常にクリエイティブに統合し、意味付けを行ったのである。
 

この意味付けにおいて、その意味付けが正しいかどうかは特に問題ではない。
あくまで構造として統合化され、辻褄が合っているかどうかが争点である。

これが左脳の意味付けの機能である。


この機能は、すべからく我々にも宿っており、今こうしている間にも左脳は外部から情報を受け取り、意味付けを行っている。
我々は生得的にアプリオリを好むのは、左脳のせいかもしれない。

この意味付けには、いうまでもなく個人個人によってバラつきが生まれる。

脳の活動を観るだけで、「指紋のように」個人を特定することができるという研究結果もある以上、それはクセという言う方が適切である。


このクセには特に主体性があるわけではなく、ただ演算する方向性が決まっているアルゴリズムである。


これは脳が逐次五感から手に入れた情報に重みづけをすることで、重要な情報を意識のうえにあげるという、我々にとって馴染み深い評価関数(重要性関数)という自我の定義にも合致する。


つまり自我とは、主体性のないただのアルゴリズムであると定義できる。

この神経ネットワークにおける電気信号のやり取りのパターンが自我である。

そして左脳の意味付け機能は、受け取った情報以上の計算は出来ない。


この事実を知ったとき、自由意思についてひとつの光明が差す。


それは、どんな情報を自分に入力するかを選択することである。


もちろん自分に何を持って入力する情報を決めるかと聞かれれば、それはゴールに重なるかどうかである。

ゴールが決まり、出力したい計算結果が明確になるから、入力する情報をそれにそって変えることができる。

これを裏返せば、何もゴールがなければ、受け取る情報以上の計算が出来ない以上、一貫性のないバラバラな結果が出力されるのみである。

ゲーデルの不完全性定理発見以降、どんな系にも必ず矛盾が内在することがわかっており、それは自我というアルゴリズムでさえ例外ではない。

グレゴリー・J・チャイティン著 知の限界 p.3
(引用開始)

手短にいうと、ゲーデルは不完全性を、チューリングは計算不能性を、そして私はランダム性を発見しました。


(引用終了)


ゲーデルの不完全性だけでなく、チューリングの計算不能性も、チャイティンのランダム性も、全て自己言及から導き出されるように、自由意思を行使するにもまずは自身について知る、すなわち自己言及することから始まるように思う。


本書の言葉を借りれば、それがシステムSを超えることだと考える。


神が消え、情報空間でのエントロピーが下がり、今日という1日が延々と続くなかで、ますます重要性を増すのが自由意思である。

それはすなわち、『どこへ行きたいのか?』ということである。
ゴール設定こそが、現代を生きる我々の福音となることを教えてくれる。


ぜひ本書を手に取り、自由意思を獲得して、壮大なグランドデザインを描いてほしい。


 








ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


1987年にチャイティンがゲーデルの不完全性定理を数学一般に拡張したことで、私たちの夢がひとつ消えました。

その夢とは、もちろんアプリオリという名の幻想です。


ではアプリオリという夢が潰えた今、何をしても無意味なような気がします。

なぜなら、結局何をしたところで完全なものが出てくることがないことがないからです。

私たちには前へ進むためにはゴールが必要で、アプリオリはあると信じてきたからこそ、私たちはここまでの進化遂げて来ることが出来ました。

ゴールを達成、なしいは喪失してからひとは18ヵ月で死ぬことは、私たちが良く知る事実ですが、それだと私たちは死ぬことになってしまいます。

アプリオリの消滅は、ある意味で、人類がもっと先へ進もうとしたポジティブな取り組みの結果だということはもちろん可能でありますが、それ苦しい言い訳にしか聞こえません。


さて、ということは私たちは良くも悪くも次の状態へパラダイムシフトを求められているということです。

もっといえば、これまでの生物の進化を踏襲しつつも、アプリオリではない別の状態を求めて来たという隠れた事実に気付くということです。


そのひとつの回答は、Probably Approximately Correct(おそらくだいたい正しい)だと思っています。

おそらくだいたい正しいとは、答えとしてはとても抽象的で、キツネにつままれたような物言いです。

しかし、生命の進化を計算的神経科学的に考察したならば、全ては仮説と検証によって成り立ち、実際にシミュレートしてみた結果です。

レスリー・ヴァリアントによれば、生命は有限の時間を持つからこの方が全体では合理的だということを主張しています。

確かに生命には寿命という期限が存在し、計算を続けて答えを出せたとしても、死んでしまっては元も子もありません。


ならばざっくりそこから逆説的に導かれる結論は、途中でもいいからとりあえず答えを出してみるということです。

そして出した答えで、間違ってきたものを、何のためらいもなく捨てるということです。

もちろんこれには問題が残ります。

それはいうなれば、間違ったものは捨てたとしても、残ったものが正解かどうかはわからないということです。

言い換えると、間違っていなかったからたまたま残ったというだけです。


であるならば、私たちもアプリオリのない時代では、おそらくだいたい正しいものを実行するしかありません。

このときのコツは、いうまでもなく、ただ誤りを捨てるというだけです。

誤りを捨てることが出来たなら、私たちはひとつ前に進めます!


完全はあるとして進むのか、完全はないからそれらしいものを選択して進むのかでは、言葉のニュアンスとしてはわずかな差ですが、実際に進むととても大きな差として現れます。

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ゴールが先、方法が後。

これは苫米地式コーチングのプリンシプルから導かれる結論のひとつです。


もちろんそのプリンシプルとは、ゴールは現状の外側に置くということでした。
そして自分の自我を変えることでスコトーマを外していきます。

その風景を故ルー・タイスの言葉を借りるならば、Invent on the wayということでしょう。
ゴール達成までの方法は、無意識が勝手に見つけてくれます。


ゴールが先、方法が後ということで考えるならば、方法は現状何もわからないということです。

なぜ方法もわかならいのにゴールに向かって走る出すことができるのかと、疑問に思う人も少なくありません。
しかし仮に方法がわかったとしても、実際にそれがその通りにいくかどうかは言うまでもなく別問題です。


空中で放したボールが地表に向かって落ちるとき、そのボールの自由落下は確かに運動方程式で記述することが可能です。

しかしのその運動方程式は、事前の仮定によって演繹的に成り立っています。
もちろん突風が吹い方とか、鳥にぶつかるとかは普通考慮からは外されます。

仮に考慮していたとしても、実際にそれらのアクシデントがなければ、本来の軌道から大きくズレて行くものです。

ということを逆向きに考えたとき、そもそも運動方程式自身が帰納的に抽出されたものであることに気づきます。
帰納的に抽出とは、なるべく同じような環境で、なるべく自分がコントールできる環境下で一般的には取り出されるものです。


帰納的に抽出したものを、演繹的に拡張することは一見正しいことのように思えます。

もちろん実際古典力学はそれで大成功しているので、正しいと言うことができるでしょう。

だから、そのパラダイムで他のものも全て同様に上手くいくかと聞かれれば、それは明らかに早計です。


なぜなら、偶然たまたまそのようになることがあるからです。

まさにバタフライ効果の発見がこの反例といえるでしょう。
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@画像はただのイメージですw


バタフライ効果とは、わずかな初期値の相違が、システム全体に大きな影響を与える複雑系における現象のひとつです。

気象学者のエドワード・ローレンツが行った気象シミュレーションにおいて、小数点6桁までの計算を誤差の範囲と考え3桁までに丸めたことで見つかります。

1万分の1の差なら、そもそもあってなくてもいいようなものに映りますが、ローレンツはカフェテリアでコーヒーを何気なく飲んで帰ってきたら、昨日の結果と今日の結果が全く違うことに驚きます。

まるでこれまで神の学問として考えられきた数学が、ゲーデルの不完全性定理発見以降数学を遡って調べてみると、ユークリッド原論の中に公理を『要請する』としか書いていなかったことに気づいたような風景です。


これらの事象を俯瞰して考えたとき、アプリオリが存在しないことはもちろんですが、結果的に前に進んだからOKとしかいえません。

どちらかが絶対的に正しいということではなく、どちらも正であったということ大事です。

ポール・ファイヤアーベントはそれを『Anything goes(何でもかまわない)!』と、少々周りから誤解されるようにいっています。


何でもかまわないを、もう少し細かく観れば、動的にあれこれを試している姿が観えてきます。

何度もいうように、どちらかがいいということではなく、どちらを選ぶことも正解です。

それはもちろん自分の意思です。

ゴールがあれば、方法は必ず観えてきます。

決めつけることなくスコトーマを外しましょう。

そしてゴールを達成するのは、他でもなく自分であることも忘れずに。

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


私たちはゴールへ向かうとき、大なり小なり不安を覚えるものです。

その不安はもちろん持って気持ちいいものではありません。
なので、その不安を一蹴するような根拠やサイン(兆し)を探しはじめます。
もちろんゴールそのものがサインである場合も往々です。

盲目的にサインを探したところで、残念ながらサインは見つかりません。
なぜならこの世は、すでにゲーテルの不完全性定理が支配しているからです。

正しいことと証明できることが明確にセパレートされています。

もし何かしらサインがあるとすれば、それはただの幻覚ないしは幻聴の可能性が高いでしょう。


ではサインが錯覚であるするならば、自分のなかで「これだ!!」と叫びたくなる至高の瞬間をどのように考えるべきでしょう?

「アイディアが降ってくる」という言葉の通り、自分を超えた神なり超越者が、自分にサインを与えたような気がします。

囁くといった方が、攻殻機動隊を連想して、個人的には好みですw


@2015年初夏に新作が劇場で公開予定!


実際この感覚は正しいですが、この問いへの結論は超情報場仮説で説明できます。

その神なり超越者の正体は正真正銘ただの自分です。


超情報場仮説で解釈すれば、私たちは超情報場の写像です。
そして過去のモデルを使えば、物理空間から情報空間への全抽象度の、そのどの抽象度にも存在しているということです。

であるならば、まさにアイディアが降ってくるという言葉の本質は、自分が今最も臨場感を持つ抽象度より、さらに上の抽象度からの情報と考えることができるでしょう。

それを私たちはサインと錯覚しているということです。


この前提で考えるならば、神頼みもサインも、全ては自分の沙汰次第ということが可能です。


神頼みもただの自分頼みなら、やることはひとつに定まります。


それは抽象度をあげてゴールにかって進むことです。

抽象度はただひたすらにあげ続けることが肝心です。


そうすることで自分自身に、自分があたかも神のように振る舞えます。

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※数学も物理も生命も全ては同じもの!

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