苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

タグ:アプリオリ

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明(ふみのよしあき)です。


私たちは、すでにアプリオリのない世界を生きているだけでなく、不確定性と不完全性が支配する、神も予測できない世界をいきています。

もちろん世界がアプリオリでないのなら、自分もアプリオリではありません。

つまりあくまでも自分も世界も何にでないということがわかったにすぎないということです。


コーチングの素晴らしい点のひとつは、まさに逆転の発想ですが、この事実に対して「自分たちが何にでもないのなら、何にでもなれるじゃん!」と痛烈なカウンターを決めたことです!

それはつまるところのゴール設定です。

ゴールによって、無作為なカオスのなかから、ほしい結晶を取り出すということです。



という前提の上で、大変興味深いコメントをブログで頂戴したので、シェアします!

(引用開始)

じゃあ、俺ブラック企業はいっとったことあって今でも愚痴ってまうけどそれもやっといてよかったってことやね。

(引用終了)


コメントのあった問題のブログはこちらから!


さて、まず前提として私の過去の掲載記事である『結局最後はやってみるまでわからない』ですが、このブログ記事の主張はまさにタイトルそのものです。


その骨子を取り出せば以下の3つに収束できます。

・ひとの脳は2進数の計算機である

・計算機において、その計算が終了するかどうかは事前に知ることができないことは証明されている

・よって、私たちは行動も全て脳の2進数の計算だから、実際に演算してみなければ解を得ることはできない


コンピュータそのものもは2進数で動いていますが、なぜ2進数かというと電源のONとOFFに対応しているからです。

そして私たちの脳も、ミクロでみれば約1000億個からなる神経細胞の塊ですが、これらはひとつひとつの神経細胞は「興奮している」か「興奮していない」かの2択であり、2進数での複雑なやり取りです。


なので、実際に計算論的神経科学(Computational Nuroscience)という学問はすでに存在し、理研も熱心に研究しています。


そしてもうひとつ大前提となるのが、この世の物事は2進数で全て表現できるということです。

これはゴットフリート・ライプニッツが17世紀にすでに証明しています。

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@ゴッドフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ


ここで脳と計算機は同じものであるという担保が取れました!

そして全ての事象が計算機の上に乗せて議論することが可能です。


次に計算機の計算がいつ終了するかどうかわからないというのは、専門的には「計算不能性」という言葉で表現されるものです。

証明したのは昨年の映画『イミテーション・ゲーム』にもなって放映されたアラン・チューリングです!

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@久しぶりにブログにて登場!アラン・チューリング


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@ベネディクト・カンバーバッチが演じるアラン・チューリング


彼が証明した計算不能性の風景とは、おバカな犬と賢い犬を見分けることができる犬が仮に存在する場合、「ではその実際に判別している犬はそもそも賢いの?」という疑問からスタートします。

自己言及ですね。


それを証明する方法は極めてシンプルで、おバカな犬と賢い犬を判別できる同じ犬をもう一匹用意して、実際に判別している犬を確かめるというものです。


結論はご存知の通りできません。

論理破綻が途中で起きてしまいます。


つまり、計算が終了するかどうかを事前に判断することはできない。

すなわち、実際に計算してみるまで計算が終わるかどうかわからないということです!


ちなみに余談ですが、過去マインドアーキテクト実装スクールで、このアラン・チューリングの計算不能性の証明をカントールの対角線論法を用いて、鮮やかに証明しましたが、講座全体の空気が凍りついたのは良い思い出です!ww


最後は上記2つの証明の結合です。

三段論法のような感じです。


人間の脳も計算機なら、同様に計算不能性の支配を受けるということです。

そして計算機としての脳も、コンピュータの計算機と同様、その演算には必ずゴールが存在します。

ちなみに、パソコンで良く聞くフリーズという現象はまさにこの計算が無限ループにハマり、終わらなかったときのことです。

計算が終了しないから次のステップに行かない、つまり画面の上ではまさに画面が凍ったように動かないというわけです。


ようやく本題のコメントへの返信となるわけですが、ブラック企業に勤めていて辛かった経験がこれからどうなるかは、ゴールが決めるということです。


ゴールがなければ、厳密にいえばゴールが現状に留まることなるので、今までの通りついつい愚痴ってしまう辛い記憶のままです。

私も新卒で勤めた会社を、ブラック企業、上司の人間関係等でうつまでに追い込まれ、9か月で退職していますが、それは今のコーチなったという結果からいえば、必要だった経験だと感じています。

なぜなら、そのおかげで例えばうつで苦しむひとの絶望が理解できるからです。


間違いなく、コーチというゴールを持たず、別のゴールを持っていた場合、同じように肯定できたかというとそうではないでしょう。

「あのクソッタレ企業」と内心ずっと思っていたかもしれません。



最後に、コーチングはポジティブ思考MAXの精神論ではありません。

再現性のある科学です。


なので少なくとも計算機科学の前提の上、ゴールを設定し、それが本当に達成できるかどうかは時間が経って見ないとわからないということです。

そこに絶対的に存在する明確な根拠はありません。

仮にあっても、それはただの錯覚かもしれません。

仮になくても、うっかり上手くいってしまうかもしれません。


それを「事前に判別することができない」ということが、計算機科学的にわかったにすぎません。


ただ確実にいえることがあれば、何が起こるかわからない真っ暗闇の世界に放り投げだされたなかで、真っ暗闇のどこに向かって進むかを決める自由が私たちにあるだけです。


アントニオ猪木的にいえば、「迷わず行けよ、行けばわかるさ」です。

私たちは、高々選ぶことくらいしか出来ないということです!



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@迷わず行けよ、行けばわかるさ


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『ドクター苫米地の新福音書』

本書は自由意思とは何かという壮大なテーマから「自分らしく生きる」ことに言及した著書である。 

自由意思という概念を、機能脳科学、現代数学、現代物理学、現代分析哲学、計算機科学等の学問から一望した内容は、壮観の一言である。
  


自由意思とは何かについて言及するには、自我についての定義が必要である。

なぜなら自由意思とは、広辞苑にて「他から束縛されず自らの責任において決定する意思」と定義されるように、自我のうちから出てくるものであるからだ。

いうまでもなく「自分らしさ」も、自我や自由意思から要請される。

私たちが「自我」という対象を考えるとき、それは往々にして意識のことを指す。

これは、『「わたし」とは何か?』というおそらく多感な子供時代に誰もが考えたであろう極めて普遍的な問いである。

我々は今ここにいる意識のことを、デカルトが方法序説で書き記したように、疑いようのない絶対的な存在であると考える。
なぜなら、意識について考えれば考えるほど、それに比例して意識するという行為が浮き彫りになるからである。

しかし、これは冷静に考えるととても不思議な論理であることに気付く。

なぜなら、「意識とは何か」について「意識」で考えているからである。

例えるなら、精神科医が自分の精神状態を診断し、精神異常の有無を判断しているに等しい。

普通精神異常を自分で知覚できないことは、想像に難くない。

今このブログに映る視覚情報も、マウスに触れる触覚情報も、PCの冷却ファンが放つ聴覚情報も、今ここにある自我を経験的に確からしめるように思えるが、それは自我のアプリオリ証明となる明確な根拠にはなりえない。

なぜなら、意識がない状態をどのように意識するのかという本質的な自己矛盾を持つからである。
例えば頭が留守となる場合があることを我々は経験的に知っており、それは無意識状態である。

無意識を意識することはできない。


さて、自我を定義するにあたって、認知神経科学の観点から考える。

先に結論を述べれば、自我は存在しないという結果が、最近の認知神経科学の研究では揃いつつある。

マイケル・S・ガザニガ著 〈わたし〉はどこにあるのか p.160~161

(引用開始)

意識の時間差に25年も前から繰り返し報告されてきた。

カルフォルニア大学サンフランシスコ校の生理学者ベンジャミン・リベットは、神経外科手術の最中、覚醒している患者の脳に刺激を与えてみた。

そこは手を担当する領域だったにも関わらず、患者が手に感覚を覚えるまでに時間差があった。

その後の実験では、行動開始に関わる脳の活動が、実際の行動の0.5秒前に起こってことがわかったが、これは当然だろう。

驚いたのは、被験者が行動を言度する0.3秒前から、脳内では関連する活動がすでに高まっていたことだ。

(中略)


2008年、ジョン=ディラン・ヘインズを中心とする研究グループは、こうした最新技術を活用してリベットの実験をさらに発展させた。

そしてある傾向が生じるときは、それが意識にのぼる10秒も前から脳にコード化されていることを突き止めたのだ。

脳はその持ち主が意識する前から活動していた。

それどころか、脳のスキャン画像から次の行動が予測できてしまう。これは衝撃的だ。

本人がその欲求を意識する前から、行動が無意識に始まっているのだとすれば、意志の原因としての意識の役割はなくなり、行動を起こそうとする意識的な意志はただの幻想となる。 

(引用終了)

※ジョン=ディラン・ヘインズらの研究参照はこちらから


私たちの頭の中の思考、五感を通して得られる情報は全て、脳の中の電気信号でやり取りされる。
 

このとき電気信号のやり取りを単純化するならば、入力⇒脳(演算)⇒出力という3層で表せる。


ここでいう入力とは五感から得られる情報や感情であり、出力とは実際の思考や行動のことを指す。


我々が意識と呼ぶのは、上引用からも理解できるように出力にカテゴライズされるものでる。


余談であるが、この事実はジュリアン・ジェインンズのバイキャメラルマインド(二分心)とも符合する。


脳が大脳辺縁系、新皮質と進化とともに徐々に拡大し、その処理能力が向上していった歴史のなかで、意識も生まれきたのならば、出力結果であることにも確かに納得がいく。


なお、バイキャメラルマインドとは、意識は先天的に備わっていたものではなく、進化の過程で後から生まれたものであるという仮説である。


意識が出力結果であるならば、我々の自由意思は何処にあるのかという疑問が残る。

そして、これらの実験結果だけを素直に踏まえるならば、我々に自由意思はないといえる。


すなわち、我々の意識とは、脳という計算機から投影されたホログラムのようなものであり、ホログラムが自分に実体があると錯覚しているにすぎないということである。



では我々は自由意思をどのように捉えるべきだろうか。


認知神経科学の知見を用いて、もう一度自我について考たい。
 

ここでは、左脳の機能に着目する。


左脳とは主に計算や言語・発話といった知的行動が専門であると考えられている。

他にも重要な機能として、統一がとれた対象への意味付けを行う。


この事実をもう少し深掘りするために、ガザニガ教授が実際に行った分離脳患者の事例を取り上げる。
 

分離脳患者とは、左脳と右脳をつなぐ脳梁が切断された患者である。

例えば、てんかんを持つ患者は、最後の治療法として外科的に脳梁を切断することがある。

てんかんとは、突然発生する脳内の電気的興奮により、発作を繰り返す慢性的な脳疾患である。
このとき、脳内の電気的興奮が発作の原因であるから、物理的に電気信号が通る個所を切断することで、発作の発生を抑える。

この治療法は事実効果があり、発作自体はほぼなくなる。
そして、患者も特に後遺症がなく、手術前とほとんど生活も変わらない。
 

しかし、このとき分離脳患者は物理的に脳梁を切断されたことで、左脳と右脳がそれぞれ独立し、情報のやり取りがないことは自明である。

そのため、左脳は右半身を、右脳は左半身をコントロールしているが、左目で観たもの(右脳で知覚)は何かと分離脳患者に問うと、彼らは何も観えないと答えるという奇妙な現象が起こる。 


それを踏まえ、今度は右視野(左脳)には、ニワトリの足の写真を、左視野(右脳)には雪景色の写真を見せる。

続いて、一連の写真の中から前の写真と関連のあるものを左右の視野にそれぞれ選んでもらう。

左手(右脳)は雪景色に対応するショベルを選び、右手(左脳)はニワトリを指した。

その後、言語野を持つ左脳に、左手はなぜショベルの写真を持っているのかと問うと、平然と「ニワトリ小屋を掃除するのにショベルが必要だ」と答えたのである。 


回答内容に違和感があることもそうだが、ここでもう一度左脳と右脳は情報を交換していないことを思い出したい。

つまり、左脳は右脳が何を見て、ショベルを選んだのか知らないのである。 

そこで今現代左脳が持っているニワトリの足に関連する写真を選ぶという情報と、左手に持つショベルという全く関連性のない情報を、非常にクリエイティブに統合し、意味付けを行ったのである。
 

この意味付けにおいて、その意味付けが正しいかどうかは特に問題ではない。
あくまで構造として統合化され、辻褄が合っているかどうかが争点である。

これが左脳の意味付けの機能である。


この機能は、すべからく我々にも宿っており、今こうしている間にも左脳は外部から情報を受け取り、意味付けを行っている。
我々は生得的にアプリオリを好むのは、左脳のせいかもしれない。

この意味付けには、いうまでもなく個人個人によってバラつきが生まれる。

脳の活動を観るだけで、「指紋のように」個人を特定することができるという研究結果もある以上、それはクセという言う方が適切である。


このクセには特に主体性があるわけではなく、ただ演算する方向性が決まっているアルゴリズムである。


これは脳が逐次五感から手に入れた情報に重みづけをすることで、重要な情報を意識のうえにあげるという、我々にとって馴染み深い評価関数(重要性関数)という自我の定義にも合致する。


つまり自我とは、主体性のないただのアルゴリズムであると定義できる。

この神経ネットワークにおける電気信号のやり取りのパターンが自我である。

そして左脳の意味付け機能は、受け取った情報以上の計算は出来ない。


この事実を知ったとき、自由意思についてひとつの光明が差す。


それは、どんな情報を自分に入力するかを選択することである。


もちろん自分に何を持って入力する情報を決めるかと聞かれれば、それはゴールに重なるかどうかである。

ゴールが決まり、出力したい計算結果が明確になるから、入力する情報をそれにそって変えることができる。

これを裏返せば、何もゴールがなければ、受け取る情報以上の計算が出来ない以上、一貫性のないバラバラな結果が出力されるのみである。

ゲーデルの不完全性定理発見以降、どんな系にも必ず矛盾が内在することがわかっており、それは自我というアルゴリズムでさえ例外ではない。

グレゴリー・J・チャイティン著 知の限界 p.3
(引用開始)

手短にいうと、ゲーデルは不完全性を、チューリングは計算不能性を、そして私はランダム性を発見しました。


(引用終了)


ゲーデルの不完全性だけでなく、チューリングの計算不能性も、チャイティンのランダム性も、全て自己言及から導き出されるように、自由意思を行使するにもまずは自身について知る、すなわち自己言及することから始まるように思う。


本書の言葉を借りれば、それがシステムSを超えることだと考える。


神が消え、情報空間でのエントロピーが下がり、今日という1日が延々と続くなかで、ますます重要性を増すのが自由意思である。

それはすなわち、『どこへ行きたいのか?』ということである。
ゴール設定こそが、現代を生きる我々の福音となることを教えてくれる。


ぜひ本書を手に取り、自由意思を獲得して、壮大なグランドデザインを描いてほしい。


 








『夢が勝手にかなう脳』

本書は、情報空間と物理空間の連続性を背景に、自分らしい人生を生き、そしてゴールを達成するメソッドを公開した書籍である。

情報空間から物理空間へ渡る情報の連続性についての議論は、苫米地理論における中心概念のひとつであり、また苫米地式コーチングが苫米地理論から生まれた歴史を鑑みると、確実に押さえたいパラダイムである。

なお、本書ではこれまでの著書のうち、唯一A次元(アブストラクト次元)について言及された著書でもある。


情報空間と物理空間の連続性の理解には、情報空間と物理空間の包摂関係についての定義から始める必要がある。

この問いを考えるにあたって、哲学の世界にて長く議論されてきた「存在VS認識」の論争を取り上げたい。


この論争は言葉の通り、存在があって初めて認識が生まれるのか、それとも認識があって初めて存在を知覚することができるのかについての議論である。

例えば、物理世界に存在する「木」を見て、初めてそれは木であると私たちは認識している。
つまり、「木」という存在が先にあって、後から木という名前を付けたということである。

しかし、iPadのような精密機器は、確かに現在物理空間に存在しているが、古来よりずっとあったものではない。
故スティーブ・ジョブズの頭の中にあったものが、様々な創意工夫を得て物理空間に現れたものである。
つまり、これは認識が先にあり、そして存在が知覚されたということである。


我々の一般的な感覚では、前者の方が経験的にも馴染深いものであるが、苫米地理論の結論では逆で、正しい方は後者であると考える。

この理解のために、不確定性原理を考えたい。

不確定性原理とは、量子の位置と運動量(速度)の両方を正確に知ることはできないという量子力学における定理である。

不確定性原理を温度の測定を例として考える。
熱いお湯の入ったビーカーに温度計を指したところ、温度計が70℃を指したとき、お湯は70℃ではないというのが、不確定性原理の主張である。
正確には近似的に70℃であるというものだ。

正確に温度測ろうとした場合、お湯の熱はもちろんビーカーや温度計に伝播し、空気中にも逃げていることを加味しなければならない。

量子とは原子より小さいスケールの存在であり、その測定は困難である。

なぜなら、先の温度計もそうであるが、測定する行為自体が、測定する対象に影響を与えてしまうからだ。

ここだけ踏まえると、量子はアプリオリに存在し、私たちの測定技術の低さに基づく結果であると感じるが、そうではない。

専門的になりすぎるので詳細は割愛するが、量子は存在自体が揺らいでおり、そして確率的である。



話を元に戻すが、温度計が70℃を指したとき、それは確かに近似的に70℃であるが、それ以外にも実際に目盛りを読む人間にも差が生じる。
 
例えば、大雑把な学生ならば70℃と読むが、生真面目な学生は70.1℃と読むという具合だ。

大雑把な学生にとってお湯は確かに70℃であり、生真面目な学生にとっては70.1℃である。
 
そしてこれを逆向きにいうのなら、大雑把な学生にとってお湯は70.1℃ではなく、生真面目な学生にとってお湯は70℃ではないということである。

ここに不確定性原理のもうひとつの重要な知見が隠されている。

それは観測できないものは存在しないことと同義であるということである。


先ほどの「存在VS認識」における木の例に立ち返るならば、私たちが木を認識して初めて木の存在を知ることができるということである。
 
これは仮に木が認識できなければ、目の前にあってもその存在を認識することはできないことを意味する。
 
それはあくまでどのように認識するかの違いに過ぎないという結論に基づくが、木と認識できなければ、それはただの棒であり、ただの柱であり、あるいはただの円柱の壁であるということである。

今まで人生の中で木を見たことがないひとに、木を見せれば、それは木という存在を理解できない。

つまり、我々の一般的な感覚として、物理空間に情報空間が包摂しているように感じているが、実際は情報空間に物理空間が包摂されているということである。


なお、この事実を認知科学として落とし込むなら、それはRASによる情報遮断を指す。

RASとはReticular Activating Systemの略であり、日本語では網様体賦活系と訳され、背側縫線核(脳幹)から新皮質にかけて広く伸びている神経系のことである。

RASは五感から拾い上げた膨大な情報を、フィルターする役割であると考えられている。

フィルターを超えたものが、意識にあがって知覚することが可能であり、フィルターで落ちればそれは知覚できず、その人にとっては存在しないことになる。

繰り返しになるが、認識して初めて存在が確認できるということである。

なお、余談であるが、RASは覚醒時に活動し、就寝時には停止することから、認知神経科学ではRASそのものが意識の正体であるとの学説もある。


アントニオ・ダマシオ著 無意識の脳 自己意識の脳 p.300~301
(引用開始)

網様体についての伝統的見解は、1940年代から50年代初めにかけてH・W・マグーン、G・モルッツィらが行った一連の注目すべき実験そのものがあるといってよい。

(中略)

この賦活系の仕事は、大脳皮質を覚醒状態に維持することだった。
 
そしてこの覚醒状態は、当時も今もたいてい意識の同義語として受け取られる。
 
網様体は、それより上部に位置する事実上すべての神経系部位、とりわけ大脳皮質に大きな影響を及ぼした。
 
その影響は大脳半球全域に及び、この影響の比喩的表現として「目覚めさせる」とか「活性化させる」といった言葉がしばしば使われた。
 
網様体賦活系は大脳皮質を覚醒させ、大脳皮質を知覚、思考、意図的行動が可能な作用モード--要するに意識的な状態に--置いた。

(引用終了)

少し結論をいそぐが、私たちが同じ世界を生き、そして同じ世界を観ているという感覚は、実は錯覚である。

私たちは観測できないものやあいまいなものを無条件に切り捨てていることで、近似的にだいたい同じものを観ているという感覚を得る。

この近似的に同じものを観ている、つまりだいたいおおよそ共有出来ていると思われる世界を我々は物理空間と呼んでいるのである。

ここには、『その認識はどこから生まれるのか?』という素朴かつ核心的な問いが残るが、その結論がA次元があり、A次元の高いところに広がった情報空間を通して認識がもたらされ、物理空間を観るということである。

すなわち、物理空間は情報空間の写像であるということである。

写像とは、数学における橋渡しの概念であり、線形代数において写像は、単射、全射、全単射の3つに細分化される。
この場では、情報空間と物理空間における一対一、一対多、多対一、多対多といった対応関係と捉えてほしい。


さて、情報空間と物理空間における連続性の議論を終えると、私たちのゴール達成とは情報空間から物理空間への写像の完了であるということが理解できる。

このとき非常に重要なことは、正しく、かつ細部まできちんと、ゴール側の情報場を創るということである。

もちろんこのとき、自分が存在する情報場も正しく、かつ細部まできちんと認識できていることが望ましい。
 
なぜなら、認識が明確であればあるほど、それは臨場感を持っているということであり、その2つの場における移動がより容易になるからである。

我々がゴール側へ移行するとき、たいていはゴール側の情報場が創り込みが弱いため、移行が難しい。

しかしこの事実は特別悲嘆するものではない。
現状の外側とは定義上観えないものであり、必然的に創り込みが弱くなるからだ。

ただ別の事実として、移動する際そのプロセスにおいて途中別の情報場に移行することになるが、そのとき別の情報が新たに加算される。

つまり、ゴール側の情報場の創り込みが強くなるのである。


いうまでもなく、物理空間は情報空間に包摂され、対応関係があることから、情報空間における場の移動は、ダイレクトに物理空間の移動につながる。

故ルー・タイスの重要なメッセージのひとつに『重要な変化は全て心の中から始まり外へ広がっていく』というものがある。

心の中とは、苫米地理論における情報場の認識である。

そして外へ広がるとは、物理空間を包摂した情報空間における場の移動である。


コーチングのコンテキストで考えても、情報空間における場の移動がゴール達成であるという事実に、これはピタリと整合する。

心の中で明確にゴールを認識することで、きちんと物理が置き換わり、私たちはゴールを達成することができるのである。


ぜひ本書を手に取り、A次元に存在する情報空間に高い臨場感を持って、自由自在に移動してほしい。




ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


誰しもすべからく自分について見つめたとき、『自分らしさ』というものが気になります。

私たちは歳を重ねるごとに、消費者から生産者へとその立場を変えていくなかで、生産者としての機能を探す一要素として、自分らしさとはとても魅力的な指針です。

なぜなら、砂漠の中でオアシスを行き当たりばったりで見つけることよりも、何かしら方向性をもってオアシスを探す方がはるかに早く見つかるからです。


自分らしさとは、ゴールに向かっていくなかでの重要なファクターです。

それが自分のゴール設定に関わり、オリジナリティーであり、社会的機能にも直結します。

もちろん内から湧き出るものである以上、Want-toであることはいうまでもありません!


私たちは往々にして淡い期待感を持ちながら未だ見ぬ自分らしさの到来を、今か今かと待ちますが、結論から言えば、残念ながら私たちが羨望の眼差しを向けるようなアプリオリなる自分らしさなどは何処にもありません。

もしあるとするならば、それはただの錯覚であり幻想です。


私たちはアプリオリなる不動点から演繹的に全てが決定している時代を生きているわけではなく、全てが流動的に揺れ動きながら産まれる2者間以上の関係性が重要な時代を生きています。 

そうであるならば、求められた機能に対して、どうのようにすることが自分にとって一番心地良いかが争点となるでしょう。

それを見つける方法は至極簡単で、求められた機能をのみを見つめて、淡々とそれをこなしていくことです。

淡々とこなして、一番自分がほっとするやりやすい方法を見つけるということです。


このとき今すでに自分の持っている情報も、必要なものとそうでないものが存在します。

いうまでもなく、何が必要で、何が不必要かはわかりません。

基本的に総入れ替えをするくらいの前提の方がスムーズです。

自分のなかの情報を洗いざらい入れ替えてみて、何度入れ替えても残る物が、もしかしたら私たちが欲しいと願う自分らしさなのかもしれません。


つまるところ、自分らしさとは、ただの結果論ということです。

何かをしたら自分らしさが見つかるわけでも、アプリオリに存在しているものではありません。

自分らしさとは、一番しっくりくるただの関係性です。

自分の中の情報をどんどん動かしていきましょう!


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 ※関係性とは情報空間でのダイナミックな移動です!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ジュリアン・ジェインズの仮説が正しいならば、私たちの意識はわりと最近になって生まれてきたものです。

意識が生まれたことにより、自然界ではあり得ないありとあらゆる複雑怪奇なことが、人間は出来るようになりました。

例えば、動物は火を見ると一目散に逃げていきますが、人間は冷静に対処し、鎮火させようと試みます。

意識の誕生によって、私たちはおそらく世界で唯一自らを省みる力を獲得しました。


もちろんそれ自体が物事を好転させることはありますが、逆に物事を複雑にさせる場合も往々です。

ゴールに向かって進むとき、Aという選択をとることが最も合理的だったとしても、何故かそうでないBの方がよく見えたりします。

それはとても残念です。

しかし、本来はとても合理的な選択をとれたにもかかわらず、それをあえて無視して別の非合理的な選択肢を取ることは、もしからしたそれは自由の裏返しなのかもしれません。

本来流れるであろう流れの中で、堂々とNOといえるのは、紛れもなくそれは自由意思というものです。

合理的とはとても響きの良いものですが、基本簡素で淡白な一本道な、それ以上の膨らみがないものです。 


意識が良いか悪いという哲学的な問いを考えることは自分を省みるという意味でも極めて重要なプロセスです。

そのいきつく回答は何であれ、己を知れば百戦危うからずです。

意識ときちんと向き合きあい、客観的ファクトをきちんと押さえていく必要があるでしょう。


そういったところを丁寧にひとつひとつ鑑みると、人の認知は差分によって認識されることもそうですが、ついつい声の大きな者に従うことになりがちであることに気付きます。

あの人が言うから間違いない、世間の常識はこうである、自分が関知せず、預かり知らぬところで議論が進み、いつしかそれがまるで絶対的な真理であるかのように振る舞います。

そうなると、自分から選択するという行為が消えていきます。 


自分で毎度毎度意識にあげ、評価し、そして意思決定することは、とても労力のいる苦しい作業です。

創造主たる神から、主権を取り戻し、再び自分の手でビックバンを起こすことに等しい行為だから当然です。

そんな風景を知ると、決定された宇宙に生きることはとても簡単だったということに気付きます。

そんな風景を知ると、やっぱり神様がほしいなという淡い誘惑が湧いてきます。


しかしそれを踏まえても、その難しさはきちんと受け入れられるべきものだと思います。

なぜなら、そうして初めて自分らしい人生を歩めるからです。

なぜなら、そうして初めて自分の為したいものが見つかるからです。


誰かの人生ではなく、自分の人生を謳歌しましょう!

自分の意識のパラダイムシフトは、ビックバンを起こすことに似ています。


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※私たちは寂しいからビックバンを起こしました

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