苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

カテゴリ: 自己変革

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


私たちはこの世に生を受けた以上、ひとつやふたつのトラウマや心の弱さはあるものです。

数学が苦手ということであるのなら、物理的に問題集やドリルを繰り返すことで克服が可能です。

しかし、心の問題となると、外科的なアプローチはあまり有効ではありません。

そういったものの解決は基本的に難しく、嫌なものは見ない聞かないの原則通り、ついつい脳がそれらを意識から外します。

自身を守るための防衛本能のようなものかもしれません。

そして仮に認識できても、それらの扱い方は全く分からず、普通思考停止に陥ります。

思考停止といえばまるで何も考えていないように観えますが、実際は膨大な計算をずっと脳内で続けています。

計算が終わらず、結果が出せないから、あたかも何も考えていないように表面ではフリーズするわけです。

『わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ』といったのは、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーでしたが、苦悩して苦しみぬいてこそ、初めて観える風景があることもまた事実です。

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@銃殺刑を免れたドストエフスキー


(引用開始) 夜と霧 p.118

新たに送り込まれた人びとは、収容所についたとき、そこを支配している状況を何ひとつ理解していなかった。

そこから出てきたひとは沈黙せざるえなかったし、ある収容所にいたっては、まだ誰も戻ってきた人もいないかった・・・。

収容所に一歩足を踏み入れると、心内風景は一変する。

不確定性が終わり、終わりが不確定になる。

こんなありように終わりはあるのか、あるとしたらそれはいつか、見極めがつかなくなることだ。

(引用終了)



内なる自分のトラウマや弱さということにピンと来なくとも、私たちはみな例外なく塀のなかを生きています。

それこそ明らかに金銭的にも物資的にも豊かさの増した現代ですが、心の豊かさはむしろ減っています。

これらの塀はアウシュビッツ収容所のように物理的に見れれば問題ありませんが、実際は眼に観えず、塀がどこにあるかどうかもわかりません。

そんな塀のなかに捉えられると、いつかは外へ出られるという淡い期待が、ただの絶望に成り果てます。

そして無限のルーティンワークが始り、永遠を支配します。


(引用開始) 夜と霧 p.121

現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、墜落することにつながった。

なにしろ「目的なんてない」からだ。

このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。

収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とするかわりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、非本来的な何かなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考える。

このような人間に成長は望めない。

被収容者として過ごす時間がもたらす過酷さのもとで高いレベルへと飛躍することはないのだ。

その可能性は、原則としてあった。

もちろんそんなことが出来るのは、ごく限られた人びとだった。

しかし彼らは、外面的には破綻し、死すらも避けられない状況であってなお、人間としての崇高さに達したのだ。

ごく普通のありようをしていた以前なら、彼らにしても可能ではなかったかもしれない崇高さに。

(引用終了)



絶望を投げ捨てず、絶望を絶望としてきちんと受け止めることができたとき、ひとは初めて次のフィールドに行けるという事実は、自己啓発至上主義者らの手垢でベトベトにされ、正直あまり触れたいものではありません。

ですが、観たいものなかには自身のステータス・クオを強化するものしかないのも事実です。

なぜなら、現状はステータス・クオの延長線上に存在し、これまでステータス・クオ上の選択をしてきたからです。

違う未来を望むなら、外側の選択が必要なことはいうまでもありません。

例えそれが地獄めぐりになろうとも。


自分の弱さと向き合うとは、パンドラの箱を開けることに似ている思います。

パンドラの箱を開けたなら、そこからはたくさんの不幸が出てきます。

しかし、最後には希望という光が残っています。


自分の弱さと向き合った向こう側で、別の境地を観えるとは、冷静に論理を追うと、存外嫌いではありません。

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※塀の外へ突き抜けろ!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ゴール設定という言葉を、私たちは往々にして目標という意味として使います。

もちろん日本語としての意味は正解ですが、コーチングとしては不正解です。

何故なら目標という言葉には、『到達可能な』というニュアンスが含まれており、それは現状の内側を表しています。

そしていうまでもなく、サッカーのワールドカップで1位を目指して4位になることがあっても、4位を目指して1位になることが出来ないように、ゴール以上の結果を出すことは普通は不可能な事象です。

またゴールがなければ、私たちは何処へも行くことができません。


という前提で考えたとき、ゴール設定は『生き方』と言い換えた方が訳として適切な気がします。

ただ生き方とだけいうとぼんやりしますが、『自分だけの』とか『生涯にわたって』と形容するともう少しクッキリするでしょう。

自分の生き方を自分で考え、自分で決断し行動するとなると、ゴール設定の重要性がより深く落ちてきます。


仏教哲学からみれば、自分の生き方という言葉で言い換えたとき、それは中観といえると思います。

中観とは全ては空であることを理解し、そこに機能を持たせることですが、空に機能を持たせて歩んでいく姿はまさに生き方そのものです。

全ての事象が縁起によるネットワークの紡ぎ目で、眼の前の出来事全てがただの紡ぎ目であるとだけ理解していると、人生が無意味なただの傍観に収まります。

かといって機能だけに着目すれば、それは金融資本主義の奴隷に成り果てます。

中観とはその間を取ることです。

両方の眼を獲得することで、始めて観える風景が存在します。

空と仮との無限に存在するグレーゾーンの中から、どこに自分のポジショニングを置くかが、ポジジョンを選ぶことが中観を生きていくということです。


現状の外側の生き方。

こういういい方をするならば、よりビビッドに私たちは自分の人生に向き合えます。

こういういい方をするならば、他人ではなく人生の主役は自分であるという当然の事実に納得します。


そうしてようやく自分の足で立ち、自分の人生を歩きはじめることが可能です。

自分の人生とは今は観えないステータス・クオの外側です。

自分できちんと選んだなら、そこに初めて自己責任を持つことができ、自分らしい人生を初めて謳歌することができるでしょう。

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※最初のスタートはいつもここから!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ひとにはそれぞれ第六感ともいうべき感性が、往々にして働きます。

もちろん第六感というと少しオカルト的な響きがありますが、無意識の演算や熟練者の勘、ゴーストの囁きといった様々言葉で表現される事象の全ては、抽象度をあげれば同じ事象は指しています。

そして意識的であれ、無意識的であれ、ひとは常に外界からの情報を逐次更新し、計算を続けていっています。

そういったなかから生まれる演算結果のひとつに、嫌の予感というものが存在します。

嫌な予感というは、もちろん心の底から外れてほしいと誰しも願うものですが、現実は非情というか、その嫌の予感は外れるよりもあたることの方が多いでしょう。

ひとはかつて動物であり(定義によってはもちろん現在も動物ですが)、自分の命を守るためには、いい予感よりも悪い予感をあてることが必要で、悪い予感をあてることにリソースを集中して進化してきたのだろうと思うと、これはこれで非常にしっくりと納得します。


しかし残念なことに、認知科学ベースで思考をしたのなら、むしろ自分で嫌の予感をあてにいっていると言った方が適切です。

なぜなら私たちの行動原理は、感情⇒思考⇒行動だからです。

私たちが理路整然と並べたてる理性的で論理的で合理的なアイディアのどれもが、まず最初に私たちが非理性的と蔑む感情が先にブートすることで始まります。

そしてその感情が宿るとき、たいていは強い臨場感が同時に形成されていくものです。

そうなると一気にホメオスタシスが悪い予感を的中させる方向に移動します。

RASも悪い予感に向けて開き、悪い予感を観るためにそれ以外の要素もスコトーマが隠します。


つまるところ、悪い予感とは一度感情がブートした瞬間に半分当たっているようなものという理解が正解です。

当たっているも何も、自分で当てにいっているのだから、当たってしかるべきと言えるでしょう。

このように考えると、『じゃあポジティブに気にしない方がいいですね!』との返答がありそうです。

ポジティブ思考がいいと言うと、とても安っぽく聞こえ、個人的には嫌ですが、ネガティブをネガティブと感じない、嫌な予感を嫌な予感と思わない、その鈍感さはとても大きな武器になることは間違いありません。


さてこのように考えたとき、別の側面から、危機管理と悪い予感のアルゴリズムと一見ぶつかりそうに感じます。

なぜなら危機管理とは、常に悪い方に思考を巡らせていくからです。

危機の回避もそうですが、危機に直面したときどの程度までなら耐えられるかどうかについても危機管理においては議論します。

それはある種臨場感をあげていることと同等です。


しかし、きちんと抽象度をあげて考えることができたなら、ぶつかる要素はどこにもないことに気付きます。

ここの大きな違いはまさにゴールの違いです。

危機管理は危機への回避や対策ですが、悪い予感は例え無意識によるものであっても的中させることにあります。


感情自体は生理現象であり、止めることは不可能です。

であるならば、いかにその指向性をきちんとコントロールするかが問われます。

一見ポジティブな情動を利用することばかりがコーチングでは叫ばれますが、私個人ポジティブだろうがネガティブだろうが、ゴールを達成させる肥やしになるのなら、なんでもかまわないと思っています。

ナポレオンが自分の背の低さにコンプレックスがあったことは有名です。

毛沢東が金持ちへの強い嫉妬心が根底にあったことは有名です。


何故悪い予感が当たるのかという命題における結論が、自分であてにいっているのなら避ける方法は簡単です。

それは自分で外せばいいだけです。

外せばいいことに気付いたなら、あとはどのような避け方が一番自分に相応しいかだけの判断になるでしょう。

もちろんエレガントな避け方もそうですが、一度被弾した後の逆転劇も、それはそれで楽しくあるものです。

そこは自分の抽象度とそのときの感情が決めていくものです!


悪い予感があたるなら、きちんと外していきましょう!

認知科学的に悪い予感を外すことは存外可能な出来事です。

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※避けるときはエレガントにこんな感じで!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


過去も未来も存在せず、今この瞬間、現在が全てです。

これは私たちの感覚から随分と逸脱したものであり、私たちの考える過去も未来も存在しないといったら明らかに言い過ぎなように感じます。

しかしこれは紛れもない事実であり、空を見上げ、太陽の姿を知覚したとき、その太陽の姿は約8分前の映像です。

私たちの視覚は光情報を元に認識していますが、光の速さは毎秒約30万kmで、地球から太陽までの距離は約1億4960万kmであることから、到達時間が簡単に計算できるでしょう。

ということは、私たちが空を見上げ、宇宙の星々を見上げたとき、当然すでに現在存在していない星を見ている場合も存在します。

また、その星々を超え、さらに視線をその向こう側に持っていくことができたなら、ビックバンを視認することも可能でしょう。

136億年前の出来事と、今この瞬間、私たちは共存しています。

一念三千の風景です。


さて、現状のコンフォートゾーンから抜け出したとき、往々にしてネガティブなフィードバックに私たちは襲われます。

これが不要な情動を含め、きちんとクリアできたとき、ようやく一歩先へ踏み出すことが可能であると考えます。

しかし、ゴールはいづれ達成され、そのあとゴールの更新が必要なように、ゴール達成した後も、残念ながらネガティブなフィードバックに襲われます。

もちろん更新後のゴールもいづれ達成され、再びゴールの更新のタイミングがやってきます。

ここで言いたいことはとてもシンプルで、ネガティブなフィードバックと永遠に戦い続けなければならないということです。


ネガティブなフィードバックとは、私たちが気持ち悪さと感じる現象です。

気持ち悪さを延々と感じ続けていくと考えると、生きるって辛いよねーと、冗談交じりに少し皮肉りたくなりますが、前へ進むと決めたなら、ここは潔くあきらめるべきでしょう!w

ただ、ここにひとつだけ光明が指す事実があるのなら、いづれ『気持ち悪くないことが気持ち悪い』というパラドキシカルな状態がコンフォートゾーンになることです。

奴隷が自身の境遇を嘆くのではなく、同じ奴隷同士で自身の繋がれた鎖の大きさや重さを競うように、気持ち悪さが愉しくなってきます。


ゴールに向かって進むとき、あれができたらとか、これがこうなったらなどは、基本不要な準備であり考慮です。

なぜなら今も過去も未来も、全てはここにあるからです。

『ロードス島で大跳躍をした。皆がロードス島へ行くことがあれば、その大跳躍を見た観客が快く証言してくれるだろう』などといわなくても、今のこの場で跳べば多くを語らぬでもそれ以上に伝わることが多々あります。 


私たちのゴールは遠いところに存在するのではなく、今のこの場所に存在します。

孔明のような策を弄さずとも、ここで跳ぶだけなので、とても安上がりで簡単な方法です。


『ここがロードスだ、ここで跳べ!』

過去も未来もここにある、私たちはとても便利な時代に生きています。

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※美しいロードス島で、華麗なる跳躍を!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


論理VS体感の構図は、様々な議論を呼ぶ構図です。

論理だけでは机上の空論(頭でっかち)になり、体感だけでは迷子になりがちです。

この問いの答えを先にいうならば、どちらが先かではなく、どちらも先であるということです。

相手の内部表現を書き換えるうえでも、自分の内部表現を書き換えるうえでも、このパラダイムはきちんと押さえる必要があるでしょう。

そして論理VS体感とは、カント以前のパラダイムであり、少なくとも21世紀を生き、情報場の存在を知る私たちは、平然と『どちらも同じもの』という必要があると思います。


私たちの存在は、抽象度の高い世界と連続的に繋がっています。

感覚的には物理空間の臨場感が最も高く、物理空間に住んでいるように感じていますが、実際はそれらはただの写像です。

なので、情報場が変わればいくらでも物理空間が変化します。

この風景を故ルー・タイスはInsides out(重要な変化は全て心の中から始まる)と言っています。

情報と物理は一体です。

情報と物理が一体である以上、論理をきちんと極めれば、そこに強い体感が伴います。

概念に身体性が伴ったと言い換えてもいいでしょう。

このパラダイムに到達して、初めて概念が使えるものへと昇華します。


今まで繋がっていなかった概念や知識が繋がり、ひとつの大きなゲシュタルトとなるユーリカ体験は、口では表現できない非常に至福のひとときです。

そしてしばらくはそのまま体感を愉しめばいいと思います!

いわば投資における回収に時期です。

投資の期間が長ければ長いほど、リターンも往々にして大きくなります。


このときのリターンは当然永久不滅のものではなく、一過性の存在です。

人間は良くも悪くも慣れていきます。

そしてたいていはそのときの高揚感から少し醒めると、冷静に自分の観えた風景の先の先のその先くらいまで観えるようになるものです。

そこから再び次の収穫に向けた投資の時間が始まります。


論理が先か、体感が先かではなく、基本的に次のパラダイムへ移行するためには両方必要ということです。

論理と体感の円環をグルグル回ることが成長であり、高速で回せば回すほど、ゴール到達までの時間が早まります。

それはウロボロスの蛇のような風景です。

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@ウロボロスの蛇


『どちらか』ではなく、『どちらでも』いいので、まずは円環の中で自分を走らせましょう!

論理と体感が同時に発火する瞬間が、目指したいところです!

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