苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

カテゴリ: 自己変革

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


誰しもすべからく自分について見つめたとき、『自分らしさ』というものが気になります。

私たちは歳を重ねるごとに、消費者から生産者へとその立場を変えていくなかで、生産者としての機能を探す一要素として、自分らしさとはとても魅力的な指針です。

なぜなら、砂漠の中でオアシスを行き当たりばったりで見つけることよりも、何かしら方向性をもってオアシスを探す方がはるかに早く見つかるからです。


自分らしさとは、ゴールに向かっていくなかでの重要なファクターです。

それが自分のゴール設定に関わり、オリジナリティーであり、社会的機能にも直結します。

もちろん内から湧き出るものである以上、Want-toであることはいうまでもありません!


私たちは往々にして淡い期待感を持ちながら未だ見ぬ自分らしさの到来を、今か今かと待ちますが、結論から言えば、残念ながら私たちが羨望の眼差しを向けるようなアプリオリなる自分らしさなどは何処にもありません。

もしあるとするならば、それはただの錯覚であり幻想です。


私たちはアプリオリなる不動点から演繹的に全てが決定している時代を生きているわけではなく、全てが流動的に揺れ動きながら産まれる2者間以上の関係性が重要な時代を生きています。 

そうであるならば、求められた機能に対して、どうのようにすることが自分にとって一番心地良いかが争点となるでしょう。

それを見つける方法は至極簡単で、求められた機能をのみを見つめて、淡々とそれをこなしていくことです。

淡々とこなして、一番自分がほっとするやりやすい方法を見つけるということです。


このとき今すでに自分の持っている情報も、必要なものとそうでないものが存在します。

いうまでもなく、何が必要で、何が不必要かはわかりません。

基本的に総入れ替えをするくらいの前提の方がスムーズです。

自分のなかの情報を洗いざらい入れ替えてみて、何度入れ替えても残る物が、もしかしたら私たちが欲しいと願う自分らしさなのかもしれません。


つまるところ、自分らしさとは、ただの結果論ということです。

何かをしたら自分らしさが見つかるわけでも、アプリオリに存在しているものではありません。

自分らしさとは、一番しっくりくるただの関係性です。

自分の中の情報をどんどん動かしていきましょう!


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 ※関係性とは情報空間でのダイナミックな移動です!

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ジュリアン・ジェインズの仮説が正しいならば、私たちの意識はわりと最近になって生まれてきたものです。

意識が生まれたことにより、自然界ではあり得ないありとあらゆる複雑怪奇なことが、人間は出来るようになりました。

例えば、動物は火を見ると一目散に逃げていきますが、人間は冷静に対処し、鎮火させようと試みます。

意識の誕生によって、私たちはおそらく世界で唯一自らを省みる力を獲得しました。


もちろんそれ自体が物事を好転させることはありますが、逆に物事を複雑にさせる場合も往々です。

ゴールに向かって進むとき、Aという選択をとることが最も合理的だったとしても、何故かそうでないBの方がよく見えたりします。

それはとても残念です。

しかし、本来はとても合理的な選択をとれたにもかかわらず、それをあえて無視して別の非合理的な選択肢を取ることは、もしからしたそれは自由の裏返しなのかもしれません。

本来流れるであろう流れの中で、堂々とNOといえるのは、紛れもなくそれは自由意思というものです。

合理的とはとても響きの良いものですが、基本簡素で淡白な一本道な、それ以上の膨らみがないものです。 


意識が良いか悪いという哲学的な問いを考えることは自分を省みるという意味でも極めて重要なプロセスです。

そのいきつく回答は何であれ、己を知れば百戦危うからずです。

意識ときちんと向き合きあい、客観的ファクトをきちんと押さえていく必要があるでしょう。


そういったところを丁寧にひとつひとつ鑑みると、人の認知は差分によって認識されることもそうですが、ついつい声の大きな者に従うことになりがちであることに気付きます。

あの人が言うから間違いない、世間の常識はこうである、自分が関知せず、預かり知らぬところで議論が進み、いつしかそれがまるで絶対的な真理であるかのように振る舞います。

そうなると、自分から選択するという行為が消えていきます。 


自分で毎度毎度意識にあげ、評価し、そして意思決定することは、とても労力のいる苦しい作業です。

創造主たる神から、主権を取り戻し、再び自分の手でビックバンを起こすことに等しい行為だから当然です。

そんな風景を知ると、決定された宇宙に生きることはとても簡単だったということに気付きます。

そんな風景を知ると、やっぱり神様がほしいなという淡い誘惑が湧いてきます。


しかしそれを踏まえても、その難しさはきちんと受け入れられるべきものだと思います。

なぜなら、そうして初めて自分らしい人生を歩めるからです。

なぜなら、そうして初めて自分の為したいものが見つかるからです。


誰かの人生ではなく、自分の人生を謳歌しましょう!

自分の意識のパラダイムシフトは、ビックバンを起こすことに似ています。


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※私たちは寂しいからビックバンを起こしました

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


私たちにはすべからく自分に対して希望を持っています。

自分はこんなものじゃない。

自分はまだまだやれるのに!

現状の自分と理想の自分とのギャップが強い認知的不協和を産み出します。

そういったモチベーションは世間からの逆風を受けがちですが、最初のスタートは誰しもみな同じです。

特別恥ずかしがることでも、悲嘆することでもありません。


そこから生まれた感情というガソリンが満タンのときは、どんどんパワフルに障害をかき分けていくことが可能です。

しかし、感情とは消費可能なエネルギーである以上、補給されなければ、どこかで必ずガス欠を起こします。

一度ガス欠を起こせば、最初の頃の威勢の良さはどこへやら、途端に今の自分の行動に疑いを持ち始めます。


自分の行動を顧みることは極めて重要ですが、顧みることとなった発端が何のかはきちんと明確に意識すべきトピックです。

仮に顧みることとなった発端が、ホメオスタシスにあるならば、全ての原因は紛れもなく自分の責任です。


さて、この純然たる事実の前で、私たちはどのように振る舞うべきでしょう?

いうまでもなく、認めることから議論をスタートさせるべきですが、往々にして事実の否定から私たちは議論を始めます。

なぜならそれを認めることは、今までの自分の経験や蓄積を、一気に水の泡とさせることに等しく感じられるからです。

これは誰しもが持つ人としての機能です。

ひとは何より損失を嫌います。

余談ですが、ギャンブルで負けを認めらずもう一勝負したくなるのも、この損失を嫌う性質ゆえです。


しかしひとが損失を嫌い、先延ばしにするだけでは、何の解決にならないことも存在します。

言い換えれば、もっと手痛い損失を被る可能性があるということです。

受け入れなければいけない損失もあるでしょう。

このときささやかな希望も、ささやかな絶望も不要です。

なぜなら、ささやかな希望は自分を無意味に慰めるだからです。

なぜなら、ささやかな絶望は自分を無意味にあきらめさせるからです。


事実をきちんと受け止める。

これは字面以上に、持つ意味は深淵です。

そしてこれが一番正直辛いプロセスです。

しかし、そこを受け止めると、今までの余計な重りが外れ、本当の自分に向き合えます!

本当にやりたいことが見つかります!

自分がフタしたパンドラの箱にこそ、無限のパワーが眠っているものです。

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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


ひとは生物の進化に準えると、生き残るために、キバでもなくツメでもなく、社会性という武器を選択しました。

社会性とは、つまるところ集団で、コミュニティを指しています。

コミュニティのなかで、私たちは多大なる恩恵を授かってきましたが、どうしても人と人の繋がり合い、つまるところ人間関係が生じます。

人間関係には、様々な感情をもつ人間が2人以上で形成されるために、その複雑性は指数関数的に増加します。

そういったなかで、妬みや嫉妬といったネガティブな感情も産まれて来ることでしょう。

ひとの成功を妬み、ひとの活躍をやっかみ、そしてひとよりも自分の方が優秀であると、そんなドロドロした感情に苛まれることもあるものです。

そんなとき、そういった感情に飲まれることは論外ですが、ひとの成功を純粋に喜べない、自分自身に悲嘆します。

もちろん自分はまだやれるのに、もっとやれるのにと、自分の変なプライドの高さが根底でこじらせているのも否定できません。
 
こうなると、社会性という武器を武器とは思えず、ただのお荷物のように感じます。
 

さて、なぜ私たちが社会性を選択したかはもちろん諸説ありますが、ひとりという個体で勝負することよりも、複数で勝負した方が戦略が増えるからではと思います。

社会性を選択したことは事実正解で、私たちが46億年もの長い間、生き残ってきたことがその動かぬ証拠です。


社会性が私たちの武器というのなら、キバもツメも毎日きちんと研いでおかないといざというとき使えないように、社会性もきちんと維持させるために何かしらのコスト払わないといけません。

そのコストは何かといえば、特出した個体を排除することです。

特出した個体とは、その能力の高さにより、ひとりでも問題を解決できるため、コミュニティの協力関係に力を貸さない可能性が存在します。
あるいは、その卓越した能力を買われて、他の個体全員がしなければならない仕事を免除される可能性がでてきます。

そうなれば、コミュニティの利益を特出した個体が吸い上げてしまう構図になります。
 
いうまでもなく、働かずに利益のみを吸い上げたならば、他の個体が働くことを放棄します。

そうなるとコミュニティの維持が出来ません。

なので、特出した個体を排除することで全体の調和を保ちます。


では、このときの個体を排除するきっかけとは何でしょう?

それがまさに嫉妬という感情です。

嫉妬によって特出した個体を排斥し、そしてコミュニティの安定をはかってきたわけです。


これは現代を生きる私たちのDNAにも継承されていて、まさにお金持ちや頭の良い成功者たちを攻撃の対象にしてしまいます。

もちろんコーチング理論でいうところのコンフォートゾーンで説明することも可能でしょう。


このように嫉妬という感情に進化心理学的な要請があり、必要な機能であるならば、ほんの少し嫉妬という感情を持つ自分を許せるような気がします。

他者を攻撃することに使っている人は論外ですが、生真面目にその発生した嫉妬という感情を自分に向けて、自分を責める必要はないわけです。


嫉妬という感情にはきちんと役割が存在し、嫉妬心はあっていいものです。

嫉妬を排斥することなく、あるという前提で自分を止観してみましょう。

ここで生まれた嫉妬というエネルギーを自分を抑圧することに使わずに、きっと自分のゴールに使えるようになるはずです。

コーチングのコンテキスト考えれば、ゴールありきで、それらは十分運用することが可能です。 


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ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


1987年にチャイティンがゲーデルの不完全性定理を数学一般に拡張したことで、私たちの夢がひとつ消えました。

その夢とは、もちろんアプリオリという名の幻想です。


ではアプリオリという夢が潰えた今、何をしても無意味なような気がします。

なぜなら、結局何をしたところで完全なものが出てくることがないことがないからです。

私たちには前へ進むためにはゴールが必要で、アプリオリはあると信じてきたからこそ、私たちはここまでの進化遂げて来ることが出来ました。

ゴールを達成、なしいは喪失してからひとは18ヵ月で死ぬことは、私たちが良く知る事実ですが、それだと私たちは死ぬことになってしまいます。

アプリオリの消滅は、ある意味で、人類がもっと先へ進もうとしたポジティブな取り組みの結果だということはもちろん可能でありますが、それ苦しい言い訳にしか聞こえません。


さて、ということは私たちは良くも悪くも次の状態へパラダイムシフトを求められているということです。

もっといえば、これまでの生物の進化を踏襲しつつも、アプリオリではない別の状態を求めて来たという隠れた事実に気付くということです。


そのひとつの回答は、Probably Approximately Correct(おそらくだいたい正しい)だと思っています。

おそらくだいたい正しいとは、答えとしてはとても抽象的で、キツネにつままれたような物言いです。

しかし、生命の進化を計算的神経科学的に考察したならば、全ては仮説と検証によって成り立ち、実際にシミュレートしてみた結果です。

レスリー・ヴァリアントによれば、生命は有限の時間を持つからこの方が全体では合理的だということを主張しています。

確かに生命には寿命という期限が存在し、計算を続けて答えを出せたとしても、死んでしまっては元も子もありません。


ならばざっくりそこから逆説的に導かれる結論は、途中でもいいからとりあえず答えを出してみるということです。

そして出した答えで、間違ってきたものを、何のためらいもなく捨てるということです。

もちろんこれには問題が残ります。

それはいうなれば、間違ったものは捨てたとしても、残ったものが正解かどうかはわからないということです。

言い換えると、間違っていなかったからたまたま残ったというだけです。


であるならば、私たちもアプリオリのない時代では、おそらくだいたい正しいものを実行するしかありません。

このときのコツは、いうまでもなく、ただ誤りを捨てるというだけです。

誤りを捨てることが出来たなら、私たちはひとつ前に進めます!


完全はあるとして進むのか、完全はないからそれらしいものを選択して進むのかでは、言葉のニュアンスとしてはわずかな差ですが、実際に進むととても大きな差として現れます。

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