苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
苫米地式認定コーチである文野義明が本気で変わりたいと考える人に向けて発信するブログです!
ブログを通じて、本気で変わりたい人のマインド設計を促していきます。

カテゴリ: 悩み

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。

努力とは非常に尊い概念です。
しかし、私たちのゴール達成に基本努力は不要です。

これは事実であり、21世紀の現代に努力は不要であると私も考えますが、如何せんどうもこの努力不要という言葉に、何かしらギャップがあるように感じます。


努力という言葉の意味を広辞苑で調べたならば、『ある目的のために力を尽くして励むこと』であるそうです。

ある目的のために力を尽くすというだけならとても美しい形容ですが、実際私たちはこの言葉になんともいえない血生臭く、ドロドロしたメージを持っています。
もちろんそこには辛く、苦しく、強制される、といういうようなネガティブな風景も含んでいます。

私たちがよく知るように嫌なことをしても生産性は全く上がりません。
なぜなら、脳は徹底的に嫌なことを拒否するからです。

会社の上司から好きでもない仕事を振られたら、どうにかやらない方法を探すのは、これが原因です。


さて、ここできちんと諦観したいのは、努力という存在の指向性です。

努力不要とは、確かに嫌なことをしなくてもいいという意味ですが、何もしなくていいといっているわけではありません。

努力不要を嫌なことを我慢して続けるという意味でとらえるならば、不要であるとの解釈に納得です。
しかし努力不要を何もしなくていいという意味でとらえるならば、それはただの都合の良い解釈です。

後者でいえば、頭で考えるだけで世界から貧困も飢餓も戦争もなくなるといっているに等しいわけです。
もちろん世界から貧困も飢餓も戦争もなくなることは大変いいことです。
なので、手を全く動かさずとも、頭で考えるだけは常にするべきでしょう。


また、努力という言葉をモチベーションという観点で見下ろすのなら、それは建設的動機づけ強制的動機づけとして表現できると思ます。

ひらたく言えば、Want-toとHave-toです。もちろん前者がWant-toであり、後者がHave-toです。

私たちが連想する努力とは、まさにこの強制的動機づけのことを意味します。
そして強制的動機づけがなぜダメかといえば、そこの裏には「さもないと」と自身を脅迫する言葉がついてくるからでした。

上司に怒られるかもしれないから仕事をするでは、ちっともパフォーマンスは上がりません。


そう考えたとき、努力不要とは、ただ単にゴール到達までのアルゴリズムの問題であるといえるでしょう。

アルゴリズムが悪いだけらなら、もっといいものに入え換えたら解決します。

努力不要とは、アルゴリズムの問題です。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


今日は『人生を愉しむ』ことをテーマにしたいと思います。

間違っても、楽しむではありませんので、ご注意ください。

また内容は少し厳しいものとなってしまいましたのが、ご容赦ください。


愉しむという言葉には、楽しむという言葉と違って、主観的に自己のなかで安らぎや充実を能動的に感じていこうという意味が含まれています。


最近この言葉を私自身、噛みしめるようになりました。

というのも、自分の人生は自分で切り開くものだからです。

自分の人生を誰が彩り豊かにするかといえば、それは他でもなく自分です。

そこであった成功も失敗も、死ぬ瞬間までの通過点であり、そしてスパイスです。

良いことも悪いことも最後は自分で愉しむという意識が必ず必要ではないかと思っています。


私のもとには悩みに関するご質問がよく寄せられますが、自ら能動的に愉しんでいこうという意思が残念ですがほとんど感じられません。

そういった方々の質問を受けて思うのが、これまで何度もご指摘したとおり、変わりたいという言葉の裏には変わりたくないという意思があることです。

もちろん直接お会いしなければわからないこともたくさんあると承知していますが、充分相談メールの上でもこれらの意思が感じとれます。

そしてその変わりたくないという言葉を別の意味に置き換えれば、それは感情がゴールであるということです。


つまり、なんかモヤモヤする。

気分が晴れない

なんとなく億劫


そういった情動を、うれしいや楽しいといった感情にどうにか置き換えることができないかということです。


大抵の方々の言う変わりたいという言葉の趣旨や悩みの本質は、だいたいこれです。

言葉は悪いですが、ただの感情です。

これは子供が飴玉をもらって口の中の甘い味を、ずっとキープしたいと思っていることと本質的に同じです。

うれしいや楽しいといった感情の源泉は、機能脳科学的にいえばドーパミンとセロトニンの分泌量です。

それらを分泌させることが目的なら、他に手段はいくらでもあります。


しかしそればかりが優先され過ぎると、言うまでもありませんが、脳内だけでみれば麻薬中毒者の快楽ジャンキーです。

大事なものを見失ってしまいます。

ここであえてその大事なものが何であるかは言及しないで置きます。

ぜひ、ご自身で定義してほしいと思います!


ここまでの内容で、かなりきついことを書いたと自覚していますが、事実です。

口の中の甘い味がなくなったから、また次の飴玉を口にでは、何の解決にもなりません


いうまでもありませんが、誰だってモヤモヤするより、ハッピーの方が良いに決まってます。

もちろん別にうれしいや楽しいという感情を持ってもらうことが、悪いことだとは一切思っていません。

そういったことに囚われてはいけないというのが私の主張です。

我々がまだ動物だったころには、それでもまだ問題ありませんでした。

しかしここまで科学が発達し、物があふれる時代になると自身で感情をコントールする能力を身に付ける必要があると考えています。

それは感情を娯楽としてとらえ、人生を愉しむことです。

どんなときでも思う存分愉しむマインドです。

自分の人生の主役は自分だといことを、悩みがあってどうしてもという方は、ここでもう一度ぜひ再考してほしいと思います!

ご自身の心の変化は内側から外側へ広がっていき、すべてを変えていきます!

今日のブログの内容で、スコトーマが少しでも外れたなら幸いです。

Bu6HmStCAAEk5ms

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


さて、今日は悩むことについて考えていきたいと思います。

誰しもが、一度や二度は悩みについて考えたことがあるかと思います。

誤解のないように、先にいうと、悩むこと自体は別に根本的に悪いことではありません。

世界を見渡せば、貧困や飢餓を初めとした問題が山積しており、国内外問わず様々な人が様々なことで悩んでいます。


では何が問題かといえば、それはひとえに囚われることです。

悩みを悩み続けるが故に、その現状が無意識に当たり前となり、にっちもさっちもいかなくなることが問題なのです。

無意識にとって当たり前となることは、もちろん本人には自覚がありません。

これが非常に厄介なところです。


普通の感覚では、悩みは答えのないもの、または見つからない問いに対して起こるものですから、答えが見つければ解決すると思われています。

しかし、実際は違って、具体的で明快な答えが仮に示されたとしても、ほとんどの場合はその答えが受け入れられません


冷静に考えてみると理解できると思いますが、これまでのやり方では上手くいかないから、行き詰って悩みが発生するわけです。

なので、これまでとは根本的に違うやり方が求められるわけですが、このまでのやり方に固執しているため、それはなかなか受け入れられません。

そしてそのまま堂々巡りになることはご想像の通りです。


この状態を打破するヒントを、実は釈迦が2600年も前に教えてくれています。


それは無記です!


無記とは、その字のとおり記すことが無いこと、つまりざっくりいえば論ずるに値しないという意味です。

これを聞くと、悩みが論ずるに値しないとは、なんてひどい発言だと思ったかもしれません。 

しかしこの無記という言葉を紐解いていくと、納得していただけると思います。


そもそもこの無記という言葉は、釈迦の弟子が死後の世界について釈迦に尋ねた際の返答です。

言葉は悪いですが、これだけ科学の発達した現在でもカルトを初めとした宗教は未だに死後の世界について語っているくらいですから、 当時はもっとすごかったと推測します。

その問いに対して、釈迦はそもそも死後の世界が本当にあるかどうかがわからないこともそうだが、誰も死後の世界にいったことがないからわかりようがないと答えました。

非常にシンプルですが、実に的を得た回答です。

そう、これが無記です。語るに及ばないとはこういう意味です!


無記とは、これだけでなく無用な論争の弊害から逃れ、当時の仏教の苦しみからの解放という本来の目的を見失わないためでもありました。 


これを悩みに置き換えた場合どうなるか?

もちろん考えても仕方のない悩みがあります。それは早々に捨てて然るべきです。

そして何よりそれとは別に、今の悩むことにいたった目的があったはずです。

そっちの方が圧倒的に大事なのではないでしょうか?


悩むことはもちろんいいですが、結局最後は無記です。

にっちもさっちもいかなるその前に、本来の目的に立ち戻ってみてはいかがでしょうか? 

552e57a51393d29d10f2462a70ca8dc799271fad1394896633
 

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


 
本日は「病気」をテーマに考えていきたいと思います。

私が今日はなぜこのテーマを取り上げたかというと、それは最近あまりにもうつ病や、自律神経失調症や、パニック症候群といった病気が社会的に当たり前になっていると感じているからです。


当たり前になると何がいけないかといえば、誰もそれを問題視しなくなります。

極端な言い方をすれば、我々は呼吸をすることに何も疑問を持たないことと同じです


さて、いつも通り順に病気とは何かを定義していきたいと思います。

広辞苑によると、病気とは身体の痛み、不快感、機能の低下や不調和などで日常生活が妨げられる、個人の肉体的異変や行動の異変をいい、そのような状態の不在を健康というとあります。

一言でいってしまれば、不健康状態です。


そしてではなぜ、病気にかかってしまうのか?


答えは簡単です。

それは、生活環境がきちんと管理できていないからです。 

つまり、1日3食きちんと栄養のある食べ物を食べていないからであり、またきちんと睡眠等の休息をとれないからです。

これは至極あたりまえで、きちんと免疫が活性化しているのに、病気になるはずがありません。

自分の管理を超える範囲で、ストレスや休息できない等の理由があるから、病気になってしまうのです。

勤勉で真面目な方であればあるほど、そういったプロセスを無視して、病気であることを責めるでしょう。

それはとても悲しいことだと思います。


さてこれを読まれて、きっと大半の方がそんなの当たり前だと思ったと思います。

ですが、その当たり前のことがきちんと実践できている方が、どれだけいるでしょうか?


なのでこれを踏まて、マインドの専門家である私は、病気を無意識の自己表現だと解釈します。

つまり、無意識が疲れたから休ませてほしいとか、もっと栄養のあるものを食べたいといっているのです。

そしてそれが長い間無視され続けてきたからこそ、病気という理由を創造的に生み出し、強制的に休ませようとするのです。


無意識からのメッセージを自分がどう受け取るかは、もちろんその人次第ですが、できるならきちんと休息をとってほしいと思います。

そんなことができたら苦労しないと思った方もいるかもしれませんが、本当にそうですか?

きちんと休むために何か工夫はされましたか?

恐らく無理と勝手に決めつけ、そのまま素通りした人も多いではと推測します。


少し話が脇にそれましたが、私の言いたいことは結局、病気の捉え方です。

我々が思っている以上に、病気はネガティブなものではないということです!


もし病気にかかってしまった場合、それは無意識からのメッセージだと受け取って、きちんと回復させましょう!

dbdbd5a5-s
 

ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


突然ですが、今まで性格を変えたいと考えたことはありますか?

変えたいという表現でなくて、『良くしたい』とか『直したい』でも構いません。


もう少し素直になれたら

もう少し短気でなかったら

もう少し積極的な人間であったら


などなど、


誰しも1度や2度は、自分の性格を変えたいと考えたことがあるかと思います。

もちろん特にこれだけではありませんが、性格について悩むひとは少なくないようです。

そしてその裏では、性格は変えられないという認識が定着しているように感じます。


一見性格について悩むことは、特におかしなものではありません。

ですが思うに、私はここに根本的な議論が抜け落ちているように感じています。


それは性格の定義です。


『は!?』と思った方が大半でしょう。性格に定義もクソもあるかという感じです。

広辞苑によると、性格とはその人が生まれつきもっている感情や意志などの傾向とあります。

恐らく皆さんも性格というものに、このようなイメージをお持ちなのではないでしょうか?

しかし当然ですが生まれつきの赤ん坊に、この子はこういう性質を持っていると証明できる人間は誰もいません

なので親がこういう性格だから、この子もこういう性格になるだろう程度の認識です。

仮に赤ん坊の性格を読み取れる技術があったとして、ポジティブな性格の子だと診断されても、その後超ネガティブな親元で育った場合、本当にポジティブなまま成長し続けることはできるでしょうか?

私は難しいと思います。 

ここまででも理解できるように、性格に関しての議論がそもそもお門違いです。

なので私はきちんと、性格とは後天的に自身・環境等の情報を整合的に処理したパターン認識であると定義します。 

これは機能脳科学的な知見も織り込んでの定義です。


例えば、学校の授業でスピーチの時間があり、そこで前に出て発表中にズボンのチャックが開いていたことを指摘され、それ以降、前に出るのが嫌になったケースを考えてみましょう。

最初はただのちょっと恥ずかしいイベントですが、それをものすごく恥ずかしいと本人が思った場合、それは無意識に書き込まれます。

そして人間には抽象化能力がありますから、その時の情動が時間とともにドンドン抽象化され、前に出ることや人前で話すことといった関連事項を包括していきます。

いわゆるパターン化です。

つまり、それがいつのまにか自分が消極的な性格となって構築され、人に認知されるという感じです。


なので性格は脳が作り出したただのパターンです。

当たり前ですが、私たちが言葉で話すのも、お箸を持って食事するのも、全てはこのパターン化のおかげです。

なのでこのパターン化能力自体がいけないというものではありません。

言うまでもなく、無意識に良いも悪いもありません。ただ粛々と情報を処理するだけです。


そして性格はパターンですから、いくらでも簡単に変えることができます!

そもそも悩むものでもなんでないことが、お分かり頂けると思います。


ただ私はマインドの専門家ですので、そもそも仮に消極的な性格について悩んでいたとしても、その性格の捉え方を変えて嫌だと思う性格を肯定的に捉えるようにすることができますが(笑)


性格なんてものは実在しないもの、ただのパターンです。

性格を変えたい場合、これを認識することから始ります!
f8435fb18a3d9df6b8eb3a4b327534051f8c3b191357986852

↑このページのトップヘ

page contents