苫米地式コーチングで本気で変わっていく人のためのブログ

Mind Architecture代表 文野義明(苫米地式コーチング認定コーチ)のオフィシャルブログ。
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カテゴリ: レビュー

『頭の回転が50倍速くなる脳の作り方』

本書はIQ向上をテーマに、クリティカルエイジを克服し、加速学習を通じて自分らしい人生を掴むことを目的とした、脳力拡大のガイドラインである。

IQ向上は我々にとってある種、悲願ともいえる、普遍的なテーマのひとつである。

なぜなら、新しい発明もビジネスも資格も、全ては自身の頭の良さが起因するからである。

IQとは、Intelligence Quotientの略で知能指数のことであり、この数値が高いほど知能が高く、低いほど知能が低いことを現す。


さて、具体的なIQ向上の方法論は本書に譲るが、IQの高さとは何かと考えたとき、それはひらたく言うと素早く問題の解決策にいきつく能力である。

例えば、仮に普通5時間かかって解く問題を、10分で解くことができる人がいたならば、その人を我々はIQが高いと評価する。

ここで我々が浮かぶ素朴な疑問は、問題を解くのに5時間かかる脳と10分かかる脳の違いは何かということである。

なぜなら、その違いがわかれば、後天的に自分のIQを高めることができ、結果的に現状の外側のゴールを容易に達成させることができるからである。


IQと問題解決の関係を考えるうえで、天才の代名詞でもある、アインシュタインの脳をこの問いのひとつの切り口として取り上げたい。

アインシュタインの脳は、アインシュタインの死後、実は摘出・解剖され、標本にされている。
もちろんこれはアインシュタインの意向を踏まえたものである。

また、その執刀にあたったのはイェール大学のトーマス・ハーヴェイ博士である。

しかし当時は、遺族への感情が加味されたことと、またハーヴェイ博士自身が歴史的偉大な脳に対し、どのようにアプローチしてよいのか全く見当がつかなかったことなどが要因として、長くその研究が前進・公開されることがなかった。

(※閲覧注意)

このとき、アインシュタインの脳の形や左右の対称性等は、一般人の脳とそこまで大きく変わらなかったが、2つだけ他の脳と圧倒的に違うものが存在した。

初めに前頭前野の厚さである。

アインシュタインは、この部分が他人よりも12ミリ厚かったことが報告されている。

前頭前野とは、ちょうど我々のおでこのあたりに位置する脳の一部位であり、ヒトの論理や抽象思考を司り、知的タスクを専門に扱う部位である。

他人よりも厚いということは、言い換えればそれだけ発達していていたということである。

しかし、この前頭前野の厚さが、生得的なものなのか、それとも後天的に拡大させていったのかは定かではないが、少なくとも前頭前野の機能から考えても、この場所がIQに深く関わっていることは容易に推察できる。


次に脳の重さである。

アインシュタインの脳の重さは、平均男性よりも約120グラム軽かった。

平均男性の脳の重さは約1350グラムであるが、アインシュタインの脳はそれよりも軽い約1230グラムであった。

世間では、よく頭の重さや大きさでIQレベルを計ろうとする冗談を耳にするが、この議論は全く意味のないものであることが、アインシュタインの脳の解剖結果から示されている。

アインシュタインの脳から考えるに、天才を解剖学的に捉えるならば、それは前頭前野が発達した人のことである。


IQの高さに前頭前野が関わってることを踏まえたとき、次に興味が向かうのは、前頭前野の機能をどうやったら高められるのかということである。

鍛えるという観点で考えたならば、前頭前野も筋肉と同じように、使えば使うほど発達する。
これは、脳に可塑性が存在することに起因するからである。

可塑性とは、神経系が環境に応じて最適な処理システムを作り上げるために、よく使われる神経の回路の処理効率を高め、使われない回路の効率を下げるという脳の現象である。

可塑性を理解するには、ジル・ボルト・テイラー博士の事例が最も印象的である。

彼女はかつて脳卒中で倒れ、その後生命は取り留めたものの、感覚器官と言語器官の深い後遺症を負ったが、約8年間の長いリハビリ生活を経て、見事に脳機能を復活させることに成功した。

脳機能が麻痺しても、脳はそれを除いてあまりまる神経細胞が存在し、その他の神経細胞を使えば十分もともとの機能の代替を果たすことが可能である。


その点を考慮すると、生得的な議論を除けば、アインシュタインは最初から今のようなIQの高さを持っていたわけではなく、長く同じ問題を考え続けることで、これだけ前頭前野を獲得したと考えることができる。

実際アインシュタインは、相対性理論を完成させることに10年以上も歳月を費やしている。
 
アインシュタインだから10年で相対性理論を完成させることが出来たと考えるべきなのか、それとも相対論という学問自体がアインシュタインでも10年かかるような難問だったと考えるべきなのかは個人の判断によるが、どちらにせよ10年間も同じ問題に取り組み続けた点は最も注目に値する事実である。

なぜなら、10年間考え続けることは、相当な期間、必然的に脳を鍛えたということだからである。


これをコーチングのコンテキストで紐解くならば、Want-toを忠実に実践することが如何に大きなインパクトを持つかの理解できる。

なぜなら、Want-toを忠実に実践するとは『こだわる』ということであり、こだわるということは『考え続ける』ということだからである。


可塑性を考慮し、IQを向上させることを考えた場合、その方法は繰り返しになるが、前頭前野を鍛えることである。

そして、それは言い換えれば抽象思考をすることである。

抽象思考とは、複数の物事の共通点を見つけ、ひとつにまとめていく思考プロセスであり、その過程で神経細胞の接続が進む。


また余談であるが、徹底的に考え抜ぬくこととは、往々にして独自の目線でその対象物の情報場をつかめるようになることである。
そしてこれは、我々が独創性と呼んでいるものである。

独創性とは、ひとが思いもよらない論理を包摂しているということであり、その状態と現状との大きなギャップに感嘆を覚える。

もちろん大きな感嘆は、それがプロダクトであった場合、高収入につながっていく。

コーチングを通じて収入があがってしまうのは、エフィカシーという観点を入れずとも、脳機能をフルに使うという点で十分説明できる。


コーチングを受けるとき、その過程は自分自身と徹底的に向き合うことになるが、このとき自分が気づかぬうちに封じた心の底に眠る願いを呼び覚ますことになる。

その願いは、我々が現状の外側のゴールと呼ぶ一例であるが、それを達成するためには、さらにもっと様々なことについて考えていくことになる。

なぜなら、そもそも現状の外側のゴールにどうやって気付くかもそうであるが、ゴールをどのように達成していくのか、あるいはどのように課題をクリアしていくかという問いも同時にやって来るからである。


心から望むWant-toのゴールを設定し、それを達成するために日々挑戦、日々思考することは、結果的に我々のIQを高めることにつながる。

現状の外側のゴールを設定し、そこに向かって進むという一見ありきたりに思えるものが、抽象思考という点では本質的に同じであり、自身のIQを向上させるということである。


誤解を恐れずいうならば、我々はよくIQが高ければ、立ちふさがる全ての難題が解決するという幻想を抱いてしまう。

しかし、これは単にセルフイメージの問題である。

自身のセルフイメージの低さから、現状の困難な課題に直面したとき、その原因を安易に自分のIQの問題であると結論付け、そこに結び付けてしまうということである。

もちろん生得的にIQが高いに越したことはないが、上記のセルフイメージの問題は、正しい現状分析ではなく、単に学校における偏差値教育の弊害である。

偏差値によって、学生を全国でランク付けし、そのランクに相応しい将来を選択させるよう仕向けるなかで、偏差値にあった分相応な生き方こそ堅実で望ましいというセルフイメージを擦り込むということである。

そして、いつの間にかIQという絶対的な制約を自身のマインドの中に創り出したということである。

まさに、偏差値が高い=IQが高い、ということであり、偏差値が高い=人生が上手くいく、という洗脳である。


IQをあげるにあたって、我々はなぜIQをあげたいのかという普遍的なところから考える必要がある。

なぜなら、IQだけが高くても意味がないからだ。

むしろ、クルト・ゲーデルのように頭の良さ故に発狂して、悲惨な最後を迎えた偉人は少なくない。
また、なんでも簡単に出来てしまうことにより、達成感を得ることが出来ず、人生をそのままドロップアウトするという事例も存在する。

アインシュタインは確かにノーベル物理学賞を光電効果の発見によって得ているが、かといってノーベル文学賞に特に興味はなく、そもそも得ようとすら思わなかっただろう。

他にも彼自身は数学にそこまで強くなく、計算間違いや、アインシュタイン本人ですら気づかなかったアインシュタイン方程式の解(ゲーデル解)をゲーデルから指摘されている。
 

IQを高めることには、必ずゴールの存在が必要である。

そして、ゴールを持ち、その向って進む中で、IQは自然と向上する。

IQを高めるということは、自分の人生をどうしていきたいかという選択の幅を広げることに他ならない。

自分のゴールを見つめ、それを達成するために必要な挑戦や思考する中で、どんどんIQを高めていってほしい。










『人はなぜ、宗教にハマるのか?』

本書は、ひとと宗教の歴史との関わりを明らかにし、これからのひとと宗教の未来のあり方に鋭く切り込んだ著書である。


宗教とは一体何かという問いは、一見初歩的な内容であるにも関わらず、その問いに答えることは極めて難しい。

なぜなら、宗教には必ず神という存在を前提としているからである。

神という我々の眼に観えない、存在の有無に様々な議論を呼ぶ概念が中心に来る以上、そこから要請されるシステムに当然差分が生まる。

もちろん、個別の宗教という意味では、それぞれに神が存在し、その神から演繹的にとても緻密な論理が積み上げられている。
そのため、神の存在そのものが証明されているという点を除けば、その宗教体系自体はとても整合的に完成されている。

いうまでもなく、歴史的に長い時間をかけて生き残ってきた宗教ほど、この傾向は顕著である。


しかし、宗教がいかに完成されたものであったとしても、その存在によって、様々な問題が起きていることも事実である。

例えば、自爆テロ、十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、インド・パキスタン分離独立、イスラエル・パレスチナ戦争などがこれにあたる。

宗教の本来の目的は、一重に人々の幸福追及であるが、その背景にはその宗教の信仰を持つ人という大前提があり、信仰を持たないものは人間ではないという摩訶不思議な論理が跳梁跋扈する。


これは、宗教という存在が物理空間における支配・制約を受けず、情報空間における整合的な広がりのみを重点を置いているからだと考えられる。

それ自体が、如何に整合的なのもであろうとも、それが本来の目的を達成するものであるかという俯瞰した視点は常に必要である。

もちろん、釈迦やイエスの頃はおそらく本気で我々の幸福を願っていたと思われ、そして現在も本質的にはそうであると思われる。
しかし、残念ながら時代とともにひとも宗教も様々な影響を受け、変化を迫られる。

他にもリーダーが変わるとき、組織の在り方に必ず変化が生まれることは、現代の会社組織とも比較しても何ら変わらない。
宗教の場合、分派という言葉で現される。

以上をまとめて、宗教をこの場では、『人間や自然の力を超えた存在を中心に置き、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団』と定義する。

なお、本レビューの立場を明確にすると、神も宗教も否定するものではない。

あくまで神と宗教を自分の都合よく解釈し、運用する側への問題提起である。 


さて、宗教とは何かを考えるにあたって、神とは一体何かという問いは欠かすことはできない。

釈迦が創始した頃の仏教を除くと、ほぼ例外なく宗教には必ず神という公理を前提に置いているからだ。

公理を置き、そこから演繹的に結論を導くというスタイルは、数学でも採用されているものであり、それ自体は特に問題ない。

しかし、公理という概念には、証明せずともそれだけで充分確からしいという前提がついている。

数学の場合、2つの点をつなぐ直線は1本しか存在しないというものだ。

そのため、神の存在がそもそも証明せずとも充分確からしいかというところから始める必要があるが、神の存在が確からしいかという問いは彼らにとっては確からしいものの、我々にとっては疑問である。

そのため、まず初めに宗教について考えるにあたって、神とは一体何なのかという問いから考えたい。


神とは、広辞苑によると『人知を超えた絶対的存在』と定義される。

そのための神の存在とは、古くはトマス・アクィナスの証明のような神の存在証明がある。


リチャード・ドーキンス著 神は妄想である p.117

(引用開始)

神の存在を支持する論証は、何世紀にもわたって神学者たちによって体系化され、誤った「常識」の普及を含めた他の人々によって補完されてきた。

一三世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものである――ただし、彼の高名を考えると、そういったことにためらいを感じはするが――ことがたやすく曝露される。

最初の三つは同じことを異なった言い方で述べているだけなので、いっしょに考察することができる。

これらにはすべて、いわゆる「無限の退行」がかかわっている――ひとつの問いに対する答えが、それに先立つ問いを提起し、その繰り返しが無限につづく、というものだ。

(引用終了)


トマス・アクィナスとは、中世ヨーロッパの神学者であり、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した、神学の集大成と呼ばれる「神学大全」を著した人物である。


彼が主張した五つの神の存在証明は以下である。

1、不動の動者
どんなものも、それに先立って動かすものがいなければ動かない。
これは無限の退行へと導き、それから逃れることができる唯一のものが神である。
何かが最初の動きをつくらねばならず、その何か(第一動者)を私たちは神と呼ぶものである。

2、原因なき原因
どんなものも、それ自体によって引き起されることはない。
あらゆる作用には先立つ原因があり、これもまた無限の退行へと私たちを導く。
これは最初の原因(第一原因)で終わらなければならず、それを私たちは神と呼ぶものである。

3、宇宙論的論証
いかなる物理的な事物も存在しなかった時があったはずに違いない。
しかし、物理的な事物が現にいま存在するするのであるから、事物を存在に至らしめた非物理的な何かが存在したはずに違いなく、それを私たちは神と呼ぶのである。

4、度合いからの論証
私たちは世界の事物に違いがあることに気付いている。
たとえば、善、あるいわ完全さについてはさまざまな度合いがある。
しかし私たちはそうした度合いを最大限のもととの比較によってのみ判断する。
人間は善くも悪くもどちらかでありうるから、最大の善は私たちうちにあるはずがない。
したがって、完全さの基準を定める何らかの最大者がほかに存在しなければならず、その最大者を私たちは神と呼ぶものである。

5、神学的な論証(目的論的論証)
世界の事物、ことに生物は、目的をもって設計されたかのように見える。
私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたように見えるものはない。
したがって設計者が存在したに違いない。
私たちはその設計者を神と呼ぶものである。


これらの論証は全て、今の我々には理解できない現象を、全て神という言葉で一括りにしたにすぎないものである。

また、その裏側には、自分たちは不完全であるが、必ず完全なるものがどこかに存在するという願いにも似た感情が見え隠れする。


しかし、すでに周知なように、完全なるもの、すなわちアプリオリが存在しないことは、すでにゲーデル・チャイティンによって証明されている。

もちろんハイゼンベルグの不確定性原理も同様の見解をもたらすものである。

少し余談になるが、完全性がないということを理解するために、チャイティンが行った不完全性定理の証明風景を簡単に共有する。

彼はLispと呼ばれるコンピュータ言語を用いて、数学全般に不完全性が存在することを証明した。

このとき完全性とは何かを考えると、それはある公理から演繹的に全ての定理が表現可能でということである。

これを逆向きにいえば、定理から帰納的に公理を導くことが可能である。

つまり、全ての対象は何らかの公理がもたらす規則性による拡張によって成り立っていれば、それを逆向きに圧縮すると当然もともとの公理が導けるはずである。

そして、実際にLisp上でプログラムされたコードを走らせたところ、どこまでいっても圧縮できない要素が見つかった。

これがランダム性であり、完全なものが存在しないことの証明である。


話題を戻すが、ではここで世界の本当の姿とは、何かという問いが残る。

なぜなら、アクィナスの神の存在証明からも理解できるように、我々にとって預かり知らないことや説明できないものは、全て神が決定してくれたからである。

つまり、これは神という不動点によって、世界の全てを秩序立てていたということである。

しかし、その不動点がなかったということになれば、今の秩序は一気に崩壊する。
なぜなら、神が存在しない世界とは、世界を確定させる基準点がないがないということを示すものであるからである。

その世界をひとことで言い換えれば、カオスであり、ランダムである。

すなわち、少なくとも我々が期待するような意味は、世界のどこにもないということである。


我々の世界が見い出しいた意味は、全てゲシュタルト能力によるものである。

ゲシュタルトとは、全体と部分の双方向性を持つひとつの意味を持つまとまりのことであり、その各要素自体に特別な意味はない。

我々が観ている、あるいは共有する情報の全ては、このゲシュタルトであり、それは全て何らかの意味を持った対象である。

それがいくつも無限に並んだならば、まるで世界に何かしらの意味や、完全なるものが存在するという錯覚が起こっても不思議ではない。

そして自我そのものもゲシュタルトであり、これは機能として我々の脳はゲシュタルト化を常に行っている。
そのため、ゲシュタルト化自体が悪ということでは一切ない。


何もないところから、どのみち意味を創り出すなら、自分にとって幸福なもの、自分が心の底からほしいと願うものを創ることがいいというのは、当然の帰着である。

これはコーチングにおける、現状の外側へのゴール設定だ。

現状の外側とは、我々が認識する世界(ステータス・クオ)の中からは決して見えない世界のことである。


世界に何の意味がないのなら、創れば良いとの指摘は、至極真っ当なものであるものの、その作業自体は非常に手間と労力のかかるものである。

そして我々は、そのコストを大いに惜しむ。

そこに宗教が長い年月をかけて構築した整合的な高い知性は、とても魅力的に感じられるだろう。

しかし、その論理をそのまま受けれいれることは、ただの思考停止に他ならない。

そういう意味で、宗教とはまさに我々の心が生み出した人類史上最大の妄想である。


幸福とは、自分で見つけ、自分で創り出すものである。

それは他者から与えられるものではない。

コーチングの元祖である故ルー・タイスは、『私が幸せであるのは、私が幸せであることを選んだからだ』という言葉を残している。

我々は他人に与えられるまでもなく、最初から幸福を自分で選び、掴み取れる存在である。


本書をぜひ手に取り、自分が幸福となることを選んでほしい。



















『脳と心の洗い方』

本書は、脳が生得的に持つ特性を用いて自己実現を目指す方法(プライミング)を紹介した著書である。

このときキーワードとなるのが、ドーパミンである。

ドーパミンとは渇望ホルモンのことで、この脳内物質の特性を利用して自己洗脳する技術がプライミングである。

ドーパミンはよく快楽ホルモンという理解が世間ではなされているが、厳密には正しくない。
正確には、ドーパミン分泌後にセロトニンが分泌され、これが我々が感じる幸福感や、やすらぎといった感覚をもたらしている。

ドーパミンがアクセルならセロトニンはブレーキの役割を持つため、ドーパミンが分泌されると、結果的にセロトニンが分泌する。
厳密ではないものの、最終的には幸福感を感じるため全てが全て間違っているわけではない。

プライミングを用いた詳しい自己洗脳の方法論は本書に譲るが、プライミングを利用するにあたって、重要となるのがドーパミンに対する理解である。


さて、ドーパミンについて改めて紹介すると、中枢神経系に存在する神経伝達物質であり、運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わっている。

実際まだドーパミンそのものは未解明な部分が多いことを付け加える。


ドーパミンの発見は、1953年にカナダのマギル大学のジェイムズ・オールズとピーター・ミルナーという2人の研究者が行ったラットの実験にさかのぼる。

彼らはラットの脳に電極を埋めこむ手術をして、傷が治ってから、電極を通じて脳に電気刺激を与える実験のなかで、たまたま見つかったものである。


この実験では、脳の特定の部位に電気刺激を与えることで、最初ラットがその場所に固執しているかのように見えたことに興味を持ち、この特性をさらに調べるために行われた。

実験内容は、容器にレバーをつけ、そのレバーを押すとラットの脳内の電極に電流が流れるよう工夫し、その固執の強度を調べるというものである。

その結果は驚くべきもので、ラットは空腹状態でも食べ物に一切眼もくれず、また発情期のラットが横にいても、それを無視してレバーを押し続けるというものだった。

ひどい個体の場合、24時間にわたって1時間あたり2000回もレバーを押し続けた。


ラットはレバーを押すことで、脳内の電気刺激を通じてドーパミンが分泌され、そしてその結果レバーを押すことだけに強い快感を感じ、それ以外に一切興味を示さなくなったのである。

この実験結果からも理解できるように、レバーを押すという行為に対して、中毒症状になった表現する方が言葉としては適切である。
またその中毒症状は、食欲や性欲といった、生物の中で最も根底にある欲求でさえも勝るものであることを押さえたい。

この結果は達磨大師を連想させる。

達磨大師とは、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。

彼は禅を組み、瞑想していたところ、気づいたら自分の足が腐っていたという逸話を残している。

これは瞑想を通じて、脳内で大量のドーパミンとセロトニンが分泌され、本人はあまりにも気持ちが良く、現実世界の不調に気付かなかったためと思われる。


ここで、プライミングがなぜこれほどまでに強力であるのか考えたい。

プライミングがなぜ強力なのかいうと、それは生物の基本的な行動原理がドーパミンと密接に絡み合っているからであると考えられる。

このときのキーワードは『報酬系』である。

報酬系とは、欲求が満たされたとき、あるいは満たされることが分かったときに活性化し、その個体に快の感覚を与える神経系のことである。
厳密にいえば、報酬系は主にA10と呼ばれる中脳の腹側被蓋野から大脳皮質に投射する神経系である。

ここにドーパミンが通ることが確認されている。

そしてこのときの報酬とは、性欲や食欲を満たすことで得られる生物的報酬と、他人から賞賛されたり、承認されることで獲得てきる社会的報酬に大別されるが、端的に言い換えれば、自分の行動によって自分が最終的に気持ちよくなるかが争点である。


自分の行動に快の感情をいだくかどうかが、自分にとっての行動原理であるとの主張は、簡単には納得しがたいものである。

しかし、これを裏付ける面白い事実が、リストカットを初めとする自傷行為である。

自傷行為とは、自身を傷つける心の病であると一般的に認識されている。
自傷行為自体に幸福感など微塵も得られないように感じられるが、実際はリストカット後の脳内をfMRIでのぞいてみると、きちんとセロトニンが分泌されている。

つまり、リストカットを最初はじめてしまった原因を抜きにして考えると、これを何度も繰り返してしまうのは、本人の自覚の有無にかかわらず、当人にとって気持ちいいために繰り返しているということである。


この事実は我々にとって馴染み深いランナーズハイとも符号する。

ランナーズハイとは、マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚してくる作用のことである。

ランナーズハイが起こったとき、脳内ではβ-エンドルフィンが大量に分泌される。

エンドルフィンはエンド(体内で生じるものの意)とルフィン(モルヒネのルヒネの部分)との合成語であり、鎮痛作用をもつ物質である。

余談だが、エンドルフィンはモルヒネよりも約6.5倍もの強力な鎮痛作用を持つ。

そしてエンドルフィンが分泌された後は、もちろんセロトニンが分泌される。

そのため、長時間走ることは、紫外線で肌がやられ、足裏の圧力で血液が多量に壊される行為であっても、最後の多幸感が忘れられず、再び走りたいという欲求が訪れるのである。

先のリストカットの例も、自傷行為において苦痛を緩和させるためにβ-エンドルフィンが脳内で分泌され、結果的にセロトニンが分泌されるのである。


以上からも理解できるように、快不快の2択で考えたとき、我々の行動原理はほぼ確実に快の方が選ばれる。

これは我々が動物のときから受け継いだ要素であると考えられる。
なぜなら、快なものとはたいてい生命維持を安定させ、不快なものとはたいてい生命の危機に基づくものであるからだ。

つまり、報酬系を働かせることは、生命維持にとって非常に強力な意味を持つのである。

ゴール達成に向けて、このプライミングを用いるというのは、言い換えるとゴール対してストーカーになることである。

プライミングとは、我々がすべからく持つ欲求という武器を最大限に発揮させる機能である。


確かにプライミングは強力な技術であり、欲求を解放することでゴールまでの道のりは遥かに平坦なものとなるが、この考え方はなかなか受け入れ難いものである。

なぜなら、上記までの内容で考えた場合、ひらたくいえば自分の欲望を爆発させることが、ゴール達成への近道であると理解できるからである。
そこだけを取り上げると、それはただの野生動物と同じである。

また、そこに一見高度そうな論理がそこに重なれば、それはヒトラーになる可能性を孕んでいる。

なので、我々の感覚的には欲求を満たすということは否定的に捉えることが多く、むしろ親や社会から自制の方が重要であると学ぶ機会の方が圧倒的に多い。


ここで自制に関する研究として、マシュマロ・テストを取り上げたい。

ウォルター・ミシェル著 マシュマロ・テスト p.11
(引用開始)

就学前にマシュマロ・テストで長く待てた人は、二七歳から三二歳にかけて、肥満指数が低く、自尊心が高く、目標を効果的に追求し、欲求不満やストレスに上手く対処できた。

中年期には、一貫して待つことのできた(先延ばしにする能力の高い)人と、できなかった(先延ばしにする能力の引い)人では、中毒や肥満と結びついた領域の脳スキャン画像でははっきりと違いが見られた。

(引用終了)


マシュマロ・テストとは、4歳以下の未就学児における自制心と社会的成果にかかる実験のことである。

マシュマロ・テストは本来、「先延ばしにされたものの、より価値のある報酬のために、未就学児が自らに課した、即時の欲求充足の先延ばしのパラダイム」という長い名前であったが、ニューヨークタイムズによって、マシュマロ・テストというわかりやすい名前を獲得した。


この実験内容はとてもシンプルである。

未就学児に彼らのマシュマロのような好物を見せ、15分待つことができたらもうひとつマシュマロをプレゼントするというものである。

子供は当然脳の発達が大人と比べ未熟であり、脳内では扁桃体からのマシュマロを今すぐ食べろとのホットな衝動と、前頭前野からの15分後にマシュマロを2つ食べろとのクールな判断が対立する。

このとき、自制できた子とそうでない子にもちろん別れたが、その後の追試験の結果は非常に大きな差となったことは、上記の引用の通りである。

自制できた子とそうでない子を、40年にもわたる追跡調査することでこの事実が明らかになっている。

自身の欲求に対し、冷静に対処できる能力は、自身のゴールを達成するにあたって必要な努力を行うという意味でも大いに役立つ。

しかし自制は確かに有効な戦略のひとつであるが、自制をし続ければいいのかといわれれば、それはもちろん間違いである。

なぜなら、自制をし続ければ、我々は容易に壊れるからだ。 


欲求の充足と自制という二つの相反するパラダイムを踏まえたとき、そこからより明確に浮かび上がるのはゴールの存在である。

つまり、ゴールが先にあることで、充足すべき欲求と、自制すべき欲求が明確にセパレートされるということである。

適切な欲求の充足はゴール達成に非常に効果的であるものの、それはあくまでゴールを達成するために必要な欲求に限られる。

逆向きにいえば、その他のゴールを達成するために必要がないと思われる欲求には、自制が必要である。

欲求の充足でさえも選択であり、ゴールを達成するために必要なことかどうかという視点は常に確保したい。


人間にはすべからく欲求が存在し、そのおかげで我々は生きることが可能である。

しかしその欲求は使い方ひとつで、我々を幸にも不幸にもする。

また、プライミングとは我々の欲求が持つパワーを全開にする技術であるが、我々が重要だと認識するWant-toも同じく欲求である。

Wantの語源を辿ると、古期北欧語で「欠けている」という意味にたどり着くように、本来Want-toとは渇望と訳す方が適切である。

娯楽的に楽しく、ふわふわやることが、コーチングが要請するWant-toではない。

そこにはレバーを押し続けるラットのように、それがやりたくて仕方がないという強烈なモチベーションが重要である。

そしてそのWant-toが要請されたとき、ゴールの臨場感が高まり、初めてゴールを達成することが可能である。


ぜひ本書を手に取り、欲求と自制を最大限に高め、ゴールを達成してほしい。

 






『スピリチュアリズム』
 
本書はスピリチュアリズムに潜む論理矛盾を明らかにし、スピリチュアリズムが蔓延する現代社会に警鐘を鳴らした著書である。
 
江原氏に代表されるスピリチュアルブームは、いったん終焉したかに見えたが、2015年現在水面下で第2次スピリチュアルブームが出版業界を初め広がりつつある。
 
第2次スピリチュアルブームの特徴は、あちら側の世界の論理を量子力学的背景につけ、最もらしくしている点である。
 
量子力学の存在が確率的であるとの主張やトンネル効果といった摩訶不思議な現象は、例え事実であっても我々の直感的な認識から大きくずれる。
 
そのため、確かに量子力学的な現象とスピリチュアリズムが語る世界観に一定の親和性があるように感じられるが、きちんと論旨を辿ると、彼らは結局『脳』について何も理解していないことに気付く。
 
もしかしたら量子力学が語る世界観とその見かけの親和性に囚われ、学術的今後の検討課題の答えを無意識のうちにそうなるように迎合しているかもしれない。


デミング博士がいう通り、『科学は正解を見つけたわけでなはく、誤りを捨ててきた』側面を持つ。

ニュートン力学でさえ、自然界にアプリオリに存在してきたものを掘り出したわけではなく、膨大に想定した仮説と、それらを実際に試した膨大な失敗のうえに、残った方法を採用しているに過ぎない。

つまり、ある条件下において、そう考えたらたまたま上手くいったということである。

そのため、実際光に速度の世界(相対論)になると、運動方程式は成り立たない。

科学の進歩には確かに誤りが付きものであり、それ自体を否定する気は毛頭ないが、それを運用する側は誤りに絡み取られないよう細心の注意が必要である。
 
輪廻転生を信じ、現状よりもっと良くなるという偽りの来世を信じて、今後自殺するといった悲惨な事件があってはならない。
 
少なくとも自分の頭できちんと考え、判断するという最低限の防衛手段は備えておくべきである。
 
私はスピリチュアリズムの最も重い罪は、証明不能な論理を、耳あたりの良い言葉で語り、人を思考停止に追いやることだと考えている。


さて、スピリチュアリズムとは、目には見えず無視できない、人間の生きる意味や目的に関するとても重要な要素があるという信仰に基づく思想と考えている。
 
もともとスピリチュアルという言葉は、『精神の』や『魂の』といった形容詞であり、"spiritual song"は聖歌、" spiritual person"は気高い人と訳されるように、どこかキラキラした厳粛なイメージを包摂している。
 
しかし、本来の英語が持つイメージだけを継承したまま、日本では独自の用語として進化を遂げている。
 
例えば、実際の日本の活用では霊のいる世界があることを信じるという意味合いで使われている。
これはもともとスピリチュアリズムが、交霊術(チャネリング)としてその名を広めたことにも起因しているのだろう。
もちろん日本の文化的背景として、先祖を墓に供養し、位牌に先祖の魂が宿るという、霊を肯定した文化を持ち、それらが取り入れ易い環境が整っていた。
 
そこから転じて、スピリチュアリズムは、心霊主義ともいえる宗教とはまた違った世界観を作り出している。
もちろん霊がいるという前提が、時代とともに、いつの間にか眼に見えない世界への羨望へと変化し、その臨場感が我々の世界の論理に取って変わろうとする。
 
あの世があるかないかは別にして、少なくともこの世のものでないものが、この世の論理と併合しては、システムにどこかしら歪みを与えることは自明である。


しかし、『何故ひとはスピリチュアリズムに魅せられるのか?』という問いから考えていかなければ、それはただの差別となる。
 
その切り口として、まずは神秘体験から考えたい。
 
神秘体験とは、体験した本人にしかわからず、他者からはうかがい知ることができないような、普通起こり得ない現象のことである。
 
例えば、ニルヴァーナがそれにあたる。

ニルヴァーナとは涅槃のことであり、悟りの境地でみる光体験である。
 
ニルヴァーナ自体は、主に瞑想を通じてもたらされ、ヨガ行者の成瀬雅春先生が、格闘家前田日明との共著でもある『男の瞑想学』にて、光体験の存在について言及している。
また、このとき身体に快感が走ることも知られているが、瞑想状態ということに関していえば、アルファ波とシータ波が優位になり、ひとはリラックスモードに突入することが知られている。

そして光体験が、そのリラックス体験の延長戦上に存在し、そこに強烈な体感があっても何ら不思議ではない。


ただここに脳という存在を加味すると、脳にはゲシュタルト能力が存在し、正しいかどうかに関わらず、ただ辻褄が合うように、現象に対して必ず何らかの意味付け行う。

つまり、光体験自体はただの現象であり、それ自体に意味があるわけではなく、むしろ脳が後付けで辻褄が合うよう意味をでっちあげる。
 
脳のゲシュタルト能力によって、我々は自我を担保している以上、生きている限り、脳は無作為な情報からゲシュタルトを生み出し続ける以上仕方のないことである。
 
そのため辻褄の合う論理として、眼に観えないスピリチュアリズムの世界の論理を、自身の高揚感も相まって簡単に受け入れてしまうことがあっても不思議ではない。

 
また、これに関連して、スピリチュアリズムがどのようにカルトへと変貌するのかも、同時に押さえたい。
 
苫米地英人著 洗脳原論 p.31~33
(引用開始)
 
それにしても、洗脳というテクニックで無意識を操ることを覚えた「教祖」という存在とは何なのか。
 
人の心には、決して素人が素手で触れてはいけない意識の闇の部分がある。
 
それを本書ではダークネス・バウンダリー(darkness boundary)、すなわち闇の境界線と便宜的に呼ぶことにする。
 
フロイトは抑圧が「無意識」と「前意識」(意識)の体系の境にある表象について行われる過程であるとしているが、まさにこの心的外傷が、記憶の淵に抑え込まれて抑圧されるその意識のそこの境界が、私のいうダークネス・バウンダリーである。
 
(中略)
 
人物をモチベーション別に分類してみよう。
 
意識の深淵を垣間見て恐くなり、もうこれ以上関わりなくないと思った人は、そこで止めてしまう。
 
人のために尽くそうという高邁な精神は持ち合わせていないが、これはビジネスになるぞと思った人は、自己啓発セミナーやマルチ商法の道に走る。
 
それとは異なって知識欲があり、人の役に立ちたいと思う人は、臨床家になる。そこに宗教的霊性が加わると、聖人となる。
 
しかし宗教的霊性だけを重んじ、現実世界での高尚な精神がともなわない人は、闇のパワーの魅力にとり憑かれ、カルトの教祖となる。
 
その教義は個人の精神を導くという命題を忘れ、言葉面のみの地球や人類の救済、超能力の賞賛に徹したものになる。
 
(引用終了)


光体験とダークネス・バウンダリーを超えることは、圧倒的な体感を伴うという意味で、似たような意味合いを持つ。

それが仮に同じものであると仮定した場合、光体験のような体験をする技術は巷にはびこっており、それらのテクニックやノウハウは意外と簡単に手に入る。

その後、繰り返しになるが、強烈な神秘体験をしたときに、我々がどのような意味付けをするかは個人の特性と判断に委ねられることになる。
 
これらの事実をきちんと知っていれば、安易な意味付けがなされることはないだろう。

なぜなら、光体験とはただの現象であるからだ。

 
他にもチャネリングと呼ばれるものも存在する。
 
チャネリングとは、スピリチュアリズムの論理として取り上げれば、高次元の自分と接続することで、今の問題への解決策や啓示をもらう行為である。
 
もちろんチャネリングもリラックス音源を流しながら、瞑想下で行われるようだが、瞑想事態に前頭前野を活性化させる効果あり、今の不安などの情動が消え、実際にスッキリする。

なので、最近Googleを初めとする世界のエリート達が瞑想を取り入れているのは事実である。
 
つまり、それは特に高次元の自分ではなく、単に抽象度があがったといった方が適切である。


このチャネリングにおいて、実際に声が聞こえるという経験もあるようである。
 
結論を先にいえば、頭のなかで声が聞こえるということは充分あり得る。
 
それが右脳の側頭葉部分に存在する、左脳におけるウェルニッケ野の該当する箇所の存在である。
 
ジュリアン・ジェインズ著 神々の沈黙 p.136~137
(引用開始)
 
これらの実験は、側頭葉にいずれかの部分の損傷が原因での癲癇と診断された約七〇人の患者を対象に行われた。
 
損傷した脳の組織を摘出する手術として、側頭部の表面の様々な個所を微弱な電流で刺激した。
 
(中略)
 
ここで代表的な実験結果をいくつか紹介する。
 
この領域に刺激を受けたとき、症例七の二〇歳の大学生はこう叫んだ。
 
「また声が聞こえます。現実との境がわからなくなっているような感じです。耳の中でハミングが聞こえ、わずかですけれど、警告されているような気がします」。
 
そしてもう一度刺激を与えると、「さっきと同じです。また現実から引き離されそうになりました」。
 
尋ねてみると、声が何をいっているのかは理解できなかったと答えた。
 
(引用終了)
 
 
この著書では、右脳にも言語野が存在し、それがかつての文明における神の声の正体であると言及している。
 
右半球側頭葉後方付近を刺激することで、頭の中で別人から声が聞こえたとの事例は、瞑想における何らかの際、この部分が活性化することで声が聞こえたという可能性は充分あり得ることである。
 
瞑想によって脳に声が聞こえるという因果関係自体は、私の知るところでは証明されたわけでない。
しかし今後の研究が進むにつれて、実際に起こっている以上は、何かしらのデータが出てくると思われる。

まだ結果が出ていないことと、それをスピリチュアリズムの論理につなげることは全く違うことである。
 
頭の中で声が聞こえて来ることでさえ、特別不思議なことではない。
 

私個人、スピリチュアリズムに否定的な立場であることは事実だが、日本国憲法第20条で信教の自由が認められている以上、最後は個人の選択に委ねられるべきであると考えている。

そしてスピリチュアリズムの見た目だけに羨望の眼を向け、入り込んでいくことは論外だが、例えば医師のような患者の死と常に隣り合せに存在し、精神を極限まですり減らし、頑張ることに疲れ、何の活力も湧いてこない人が、スピリチュアリズムを求めてしまうケースは分けて考えるべきである。

こちらの問題は根が深い。
 
事実神や宗教と言った、超常的な論理を受け入れることで、人のストレス値が下がるというデータもある。
 
しかしそれを「穏やか」とは言わないと考えている。

スピノザの「エチカ」にて、『苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象した途端、苦悩であることをやめる』とあるが、苦悩の明晰判明な表象がどちらに向くかは極めて重要な分岐である。

自分ではもう何も判断が出来ず、そういったものの答えを、神や高次元世界との接続などという疑似科学に救いを求めてしまうこと全てを私は否定できない。
 
しかし同時に、それが正しい選択とも思えない。

自らの自由意思を放棄しかけた彼らが、再び自由意思を抱きかかえてもらうには、どうようにすることが最も良い選択となり得るのだろうか。
 
それは今後の検討課題である。


ヴィクトール・E・フランクル著 夜と霧 p.131
(引用開始)
 
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみの責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。

人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙でたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

だれもそのひとから苦しみを取り除くことはできない。

この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
 
(引用終了)

 
人類の歩みとは、ひとの尊厳と自由意思を獲得してきた歴史である。

世界史における革命には必ず流血を挟み、それらを勝ち取ってきた。
民主主義もそのひとつである。 

自由意思を他に絡められることなく、最後まで大事に抱きかかえる、そんな泥臭いメンタリティーが必要であると考える。 

自分の最後の領域を、容易く他所へ受け渡してはならない。


ぜひ本書を手に取り、自らを拠りどころとしたあり方を模索してほしい。 


















『苫米地英人、宇宙を語る』

本書は、著名な宇宙物理学者であるスティーブン・ホーキング博士の著書「ホーキング、宇宙を語る」を題材として、角川春樹氏に依頼され、書かれた宇宙論である。

我々の住まう宇宙とは何かと考えたとき、往々にして夜空に浮かぶ星々を連想する。

しかし、宇宙とは何かを機能脳科学から紐解いとき、それは苫米地理論における一人一宇宙に通じる。

つまり、我々は誰しもがただひとつの宇宙を持ち、その中に現代宇宙物理学が包摂されるということである。


さて、宇宙とは、広辞苑にて『万物を含むすべての広がり』と定義され、天文学的では『すべての天体を含む全空間』と定義される。

上記の定義からも容易に推測できるように、我々の価値観は『存在ありき』からスタートする。

すなわち、『我々が今ここに存在する』という疑いようのない絶対的な感覚だ。

この事実は実際我々の感覚によく合致する。

今眼の前に存在するブログの文字情報も、心臓の鼓動も、イスに座った感触も、これら全ての情報が『私はここにいる』ことを確信させてくれる。

これはルネ・デカルトの「コギト・エルゴ・スム」にも通じる。
すなわち、我々が我々以外の明確に認識すればするほど、それに比例して我々自身が浮き彫りになってくるということである。

しかし、これを機能脳科学からのぞいた場合、我々の感覚とは少し異なることになる。
なぜなら、「わたし」を含む全ての存在は、脳内におけるただの電気信号のやり取りであるからだ。

これは言い換えれば、例えば視覚情報の場合は、水晶体を通って網膜に映し出された光の像が、電気信号に変換されて視神経を通じて脳に伝達するということである。

もちろん他の五感の情報も同様に電気信号に変換される。

そして、これを逆向きに捉えた場合、これらの刺激が事前にない場合、脳は何も認識できないことになるだろう。


実際問題として、脳は外部からの常に刺激を得て、処理するようにできているため、外部からの刺激を完全に遮断すれば、自ら刺激を作り出して脳は幻覚や幻聴を観る。

そのため、脳の機能上実際に全ての感覚情報を遮断しても実証ができないが、五感に何かしらハンディを負う人は確かに残りの器官だけ生活を営んでおり、仮定の話としても脳は何も認識することができないことに筋は通っている。

そして、何も認識することができなければ、どうしてその存在を証明できるのかという純然たる矛盾が残るだろう。


すなわち、存在ありきの議論の中に、『脳』という仮定をひとつ加えることで、認識が存在を生むという事実が浮かび上がる。

猿にビックバンは存在せず、人間がビックバンを創ったのである。

ビックバンに限らず、物理法則でさえも人間が創ったものである。

アリストテレスの時代は、軽い物と重い物を同時に落とした場合、重い物が先に落ちたが、それから2000年以上経過した後、ガリレオに思考実験にて、重いものも軽いものも同時に落ちることが示された。

事実アポロ15号のスコット船長が、右手にハンマー、左手に羽毛を持ち、同時に両者を手から離すと、ゆっくりと落下して月面に同時に着地した。

物体の自由落下に質量は関係なく、重力加速度だけが落下運動に影響することが運動方程式から導ける。

アリストテレスの頃とガリレオの頃の違いは何かといえば、アクセスした情報量の違いであり、その情報量の違いとは認識の数に他ならない。

認識したことで、後から存在が付いてきたのである。


実際に認識があって存在が成り立つ場合、なぜ全員が同じ宇宙を認識しているといえるかという問いが残るが、結論を先に述べるなら誰一人同じ宇宙を認識していない。

例えば、我々にとっては夜の星空だし、天文学者にとってはすべての天体を含む全空間だし、
物理学者にとっては物質や輻射(ふくしゃ)が存在し得る限りの全空間である。


一人一宇宙は、哲学における可能世界意味論の次のパラダイムであるとも理解できる。

可能世界意味論とは、可能性、必然性、偶然性などの様相命題を論理的に扱うための理論的装置である。

可能世界意味論を哲学者クリプキは著書『名指しと必然性』にて、以下のように解説している。

なお、クリプキは様相論理の統語論と意味論をつないだという意味で完全性を示した人物である。


ソール・A・クリプキ著 名指しと必然性 p.17~18
(引用開始)

「可能世界」について手短に述べておこう。

本書において私は、可能世界を遠くのような惑星のようなもの、すなわちわれわれの自身の環境に属しはするがどういうわけか異次元に存在しているものと見なすような、あるいは「世界交差同定」という疑似問題へ導くような、概念の誤用に反対する議論を行った。

(中略)

二つのありふれたサイコロを振って、二つの眼の数が現れる。

各々のサイコロにつき、六つの可能な結果がある。

したがって、目の数に関する限り、一対のサイコロには三六の可能な状態があることになるが、現実に振られたサイコロの現れ方に対応するのは、これらの状態のうちただ一つだけである。

(引用終了)


可能世界意味論を、我々の世界に落とし込んだとき、それは今後想定されうる全ての未来を指す。

例がサイコロであるため想定される未来は高々36通りであるが、現実世界の未来はもっと多岐にわたる。

そういった無限の選択肢のなかから、我々は刻一刻と意識的ないしは無意識的に、ひとつの可能世界を選んでいる。
その選択を書き留めた樹形図を見たならば、それはただひとりだけが持つ、ただひとつの世界が出来上がるのである。

もっともこのモデルで考えると、ひとつの選択をすることは過去が一意に決まることが約束される。

クリプキはユダヤ系(父親はユダヤ教のラビ)であり、その思考に時間が過去から未来に流れる、すなわち神を前提とした彼の信念がここに見え隠れする。

しかし、一人一宇宙では過去も未来と同様に選択可能であるという解釈になる。

なぜなら、コーチングのコンテキストで考えれば、未来の自分が過去の自分を決定するからである。

例えば、高校生時代を不良として過ごした青年が、不良時代に培った行動力を武器に将来起業して社長になれば、高校の不良時代のことを肯定するだろう。

しかし、不良時代からそのまま悪行を続けて、将来獄中に入った場合、高校の不良時代のことを否定するだろう。


つまり、未来は可能世界として無数に存在し、そして過去も潜在的な可能世界として無数に存在しているということである。

まさにこれが哲学からのぞいた、一人一宇宙の風景である。

そこに誰一人として同じ樹形図は存在しない。


結論を急ぐと、宇宙は我々が創ったということである。

約137億年前に宇宙が創成し、その後地球と生命が誕生したという西洋史観を持つ我々には、この事実は少々納得しがたいものである。

しかしその事実がきちんと心身にインストールされた場合、世界の見え方が一変する。

そのインパクトは新しい宇宙の誕生、すなわちビックバンを起こすことといってもいいだろう。

そしてその宇宙が自分独自のものであるのなら、創造主としていかようにも振る舞うことが可能である。


しかしそれは同時に孤独である。

その孤独感を紛らわせるために、隣人を創り出したという理解は非常に納得できるものである。

そういう意味で、人生とはもしかしら最高の暇つぶしなのかもしれない。


ぜひ本書を手に取り、自らの宇宙に、自分だけのビックバン(ゴール)を創造してほしい。

 











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