ブログをご覧の皆さん、こんにちは!

マインドアーキテクチャーの文野義明です。


さて、今日は悩むことについて考えていきたいと思います。

誰しもが、一度や二度は悩みについて考えたことがあるかと思います。

誤解のないように、先にいうと、悩むこと自体は別に根本的に悪いことではありません。

世界を見渡せば、貧困や飢餓を初めとした問題が山積しており、国内外問わず様々な人が様々なことで悩んでいます。


では何が問題かといえば、それはひとえに囚われることです。

悩みを悩み続けるが故に、その現状が無意識に当たり前となり、にっちもさっちもいかなくなることが問題なのです。

無意識にとって当たり前となることは、もちろん本人には自覚がありません。

これが非常に厄介なところです。


普通の感覚では、悩みは答えのないもの、または見つからない問いに対して起こるものですから、答えが見つければ解決すると思われています。

しかし、実際は違って、具体的で明快な答えが仮に示されたとしても、ほとんどの場合はその答えが受け入れられません


冷静に考えてみると理解できると思いますが、これまでのやり方では上手くいかないから、行き詰って悩みが発生するわけです。

なので、これまでとは根本的に違うやり方が求められるわけですが、このまでのやり方に固執しているため、それはなかなか受け入れられません。

そしてそのまま堂々巡りになることはご想像の通りです。


この状態を打破するヒントを、実は釈迦が2600年も前に教えてくれています。


それは無記です!


無記とは、その字のとおり記すことが無いこと、つまりざっくりいえば論ずるに値しないという意味です。

これを聞くと、悩みが論ずるに値しないとは、なんてひどい発言だと思ったかもしれません。 

しかしこの無記という言葉を紐解いていくと、納得していただけると思います。


そもそもこの無記という言葉は、釈迦の弟子が死後の世界について釈迦に尋ねた際の返答です。

言葉は悪いですが、これだけ科学の発達した現在でもカルトを初めとした宗教は未だに死後の世界について語っているくらいですから、 当時はもっとすごかったと推測します。

その問いに対して、釈迦はそもそも死後の世界が本当にあるかどうかがわからないこともそうだが、誰も死後の世界にいったことがないからわかりようがないと答えました。

非常にシンプルですが、実に的を得た回答です。

そう、これが無記です。語るに及ばないとはこういう意味です!


無記とは、これだけでなく無用な論争の弊害から逃れ、当時の仏教の苦しみからの解放という本来の目的を見失わないためでもありました。 


これを悩みに置き換えた場合どうなるか?

もちろん考えても仕方のない悩みがあります。それは早々に捨てて然るべきです。

そして何よりそれとは別に、今の悩むことにいたった目的があったはずです。

そっちの方が圧倒的に大事なのではないでしょうか?


悩むことはもちろんいいですが、結局最後は無記です。

にっちもさっちもいかなるその前に、本来の目的に立ち戻ってみてはいかがでしょうか? 

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