『スピリチュアリズム』
 
本書はスピリチュアリズムに潜む論理矛盾を明らかにし、スピリチュアリズムが蔓延する現代社会に警鐘を鳴らした著書である。
 
江原氏に代表されるスピリチュアルブームは、いったん終焉したかに見えたが、2015年現在水面下で第2次スピリチュアルブームが出版業界を初め広がりつつある。
 
第2次スピリチュアルブームの特徴は、あちら側の世界の論理を量子力学的背景につけ、最もらしくしている点である。
 
量子力学の存在が確率的であるとの主張やトンネル効果といった摩訶不思議な現象は、例え事実であっても我々の直感的な認識から大きくずれる。
 
そのため、確かに量子力学的な現象とスピリチュアリズムが語る世界観に一定の親和性があるように感じられるが、きちんと論旨を辿ると、彼らは結局『脳』について何も理解していないことに気付く。
 
もしかしたら量子力学が語る世界観とその見かけの親和性に囚われ、学術的今後の検討課題の答えを無意識のうちにそうなるように迎合しているかもしれない。


デミング博士がいう通り、『科学は正解を見つけたわけでなはく、誤りを捨ててきた』側面を持つ。

ニュートン力学でさえ、自然界にアプリオリに存在してきたものを掘り出したわけではなく、膨大に想定した仮説と、それらを実際に試した膨大な失敗のうえに、残った方法を採用しているに過ぎない。

つまり、ある条件下において、そう考えたらたまたま上手くいったということである。

そのため、実際光に速度の世界(相対論)になると、運動方程式は成り立たない。

科学の進歩には確かに誤りが付きものであり、それ自体を否定する気は毛頭ないが、それを運用する側は誤りに絡み取られないよう細心の注意が必要である。
 
輪廻転生を信じ、現状よりもっと良くなるという偽りの来世を信じて、今後自殺するといった悲惨な事件があってはならない。
 
少なくとも自分の頭できちんと考え、判断するという最低限の防衛手段は備えておくべきである。
 
私はスピリチュアリズムの最も重い罪は、証明不能な論理を、耳あたりの良い言葉で語り、人を思考停止に追いやることだと考えている。


さて、スピリチュアリズムとは、目には見えず無視できない、人間の生きる意味や目的に関するとても重要な要素があるという信仰に基づく思想と考えている。
 
もともとスピリチュアルという言葉は、『精神の』や『魂の』といった形容詞であり、"spiritual song"は聖歌、" spiritual person"は気高い人と訳されるように、どこかキラキラした厳粛なイメージを包摂している。
 
しかし、本来の英語が持つイメージだけを継承したまま、日本では独自の用語として進化を遂げている。
 
例えば、実際の日本の活用では霊のいる世界があることを信じるという意味合いで使われている。
これはもともとスピリチュアリズムが、交霊術(チャネリング)としてその名を広めたことにも起因しているのだろう。
もちろん日本の文化的背景として、先祖を墓に供養し、位牌に先祖の魂が宿るという、霊を肯定した文化を持ち、それらが取り入れ易い環境が整っていた。
 
そこから転じて、スピリチュアリズムは、心霊主義ともいえる宗教とはまた違った世界観を作り出している。
もちろん霊がいるという前提が、時代とともに、いつの間にか眼に見えない世界への羨望へと変化し、その臨場感が我々の世界の論理に取って変わろうとする。
 
あの世があるかないかは別にして、少なくともこの世のものでないものが、この世の論理と併合しては、システムにどこかしら歪みを与えることは自明である。


しかし、『何故ひとはスピリチュアリズムに魅せられるのか?』という問いから考えていかなければ、それはただの差別となる。
 
その切り口として、まずは神秘体験から考えたい。
 
神秘体験とは、体験した本人にしかわからず、他者からはうかがい知ることができないような、普通起こり得ない現象のことである。
 
例えば、ニルヴァーナがそれにあたる。

ニルヴァーナとは涅槃のことであり、悟りの境地でみる光体験である。
 
ニルヴァーナ自体は、主に瞑想を通じてもたらされ、ヨガ行者の成瀬雅春先生が、格闘家前田日明との共著でもある『男の瞑想学』にて、光体験の存在について言及している。
また、このとき身体に快感が走ることも知られているが、瞑想状態ということに関していえば、アルファ波とシータ波が優位になり、ひとはリラックスモードに突入することが知られている。

そして光体験が、そのリラックス体験の延長戦上に存在し、そこに強烈な体感があっても何ら不思議ではない。


ただここに脳という存在を加味すると、脳にはゲシュタルト能力が存在し、正しいかどうかに関わらず、ただ辻褄が合うように、現象に対して必ず何らかの意味付け行う。

つまり、光体験自体はただの現象であり、それ自体に意味があるわけではなく、むしろ脳が後付けで辻褄が合うよう意味をでっちあげる。
 
脳のゲシュタルト能力によって、我々は自我を担保している以上、生きている限り、脳は無作為な情報からゲシュタルトを生み出し続ける以上仕方のないことである。
 
そのため辻褄の合う論理として、眼に観えないスピリチュアリズムの世界の論理を、自身の高揚感も相まって簡単に受け入れてしまうことがあっても不思議ではない。

 
また、これに関連して、スピリチュアリズムがどのようにカルトへと変貌するのかも、同時に押さえたい。
 
苫米地英人著 洗脳原論 p.31~33
(引用開始)
 
それにしても、洗脳というテクニックで無意識を操ることを覚えた「教祖」という存在とは何なのか。
 
人の心には、決して素人が素手で触れてはいけない意識の闇の部分がある。
 
それを本書ではダークネス・バウンダリー(darkness boundary)、すなわち闇の境界線と便宜的に呼ぶことにする。
 
フロイトは抑圧が「無意識」と「前意識」(意識)の体系の境にある表象について行われる過程であるとしているが、まさにこの心的外傷が、記憶の淵に抑え込まれて抑圧されるその意識のそこの境界が、私のいうダークネス・バウンダリーである。
 
(中略)
 
人物をモチベーション別に分類してみよう。
 
意識の深淵を垣間見て恐くなり、もうこれ以上関わりなくないと思った人は、そこで止めてしまう。
 
人のために尽くそうという高邁な精神は持ち合わせていないが、これはビジネスになるぞと思った人は、自己啓発セミナーやマルチ商法の道に走る。
 
それとは異なって知識欲があり、人の役に立ちたいと思う人は、臨床家になる。そこに宗教的霊性が加わると、聖人となる。
 
しかし宗教的霊性だけを重んじ、現実世界での高尚な精神がともなわない人は、闇のパワーの魅力にとり憑かれ、カルトの教祖となる。
 
その教義は個人の精神を導くという命題を忘れ、言葉面のみの地球や人類の救済、超能力の賞賛に徹したものになる。
 
(引用終了)


光体験とダークネス・バウンダリーを超えることは、圧倒的な体感を伴うという意味で、似たような意味合いを持つ。

それが仮に同じものであると仮定した場合、光体験のような体験をする技術は巷にはびこっており、それらのテクニックやノウハウは意外と簡単に手に入る。

その後、繰り返しになるが、強烈な神秘体験をしたときに、我々がどのような意味付けをするかは個人の特性と判断に委ねられることになる。
 
これらの事実をきちんと知っていれば、安易な意味付けがなされることはないだろう。

なぜなら、光体験とはただの現象であるからだ。

 
他にもチャネリングと呼ばれるものも存在する。
 
チャネリングとは、スピリチュアリズムの論理として取り上げれば、高次元の自分と接続することで、今の問題への解決策や啓示をもらう行為である。
 
もちろんチャネリングもリラックス音源を流しながら、瞑想下で行われるようだが、瞑想事態に前頭前野を活性化させる効果あり、今の不安などの情動が消え、実際にスッキリする。

なので、最近Googleを初めとする世界のエリート達が瞑想を取り入れているのは事実である。
 
つまり、それは特に高次元の自分ではなく、単に抽象度があがったといった方が適切である。


このチャネリングにおいて、実際に声が聞こえるという経験もあるようである。
 
結論を先にいえば、頭のなかで声が聞こえるということは充分あり得る。
 
それが右脳の側頭葉部分に存在する、左脳におけるウェルニッケ野の該当する箇所の存在である。
 
ジュリアン・ジェインズ著 神々の沈黙 p.136~137
(引用開始)
 
これらの実験は、側頭葉にいずれかの部分の損傷が原因での癲癇と診断された約七〇人の患者を対象に行われた。
 
損傷した脳の組織を摘出する手術として、側頭部の表面の様々な個所を微弱な電流で刺激した。
 
(中略)
 
ここで代表的な実験結果をいくつか紹介する。
 
この領域に刺激を受けたとき、症例七の二〇歳の大学生はこう叫んだ。
 
「また声が聞こえます。現実との境がわからなくなっているような感じです。耳の中でハミングが聞こえ、わずかですけれど、警告されているような気がします」。
 
そしてもう一度刺激を与えると、「さっきと同じです。また現実から引き離されそうになりました」。
 
尋ねてみると、声が何をいっているのかは理解できなかったと答えた。
 
(引用終了)
 
 
この著書では、右脳にも言語野が存在し、それがかつての文明における神の声の正体であると言及している。
 
右半球側頭葉後方付近を刺激することで、頭の中で別人から声が聞こえたとの事例は、瞑想における何らかの際、この部分が活性化することで声が聞こえたという可能性は充分あり得ることである。
 
瞑想によって脳に声が聞こえるという因果関係自体は、私の知るところでは証明されたわけでない。
しかし今後の研究が進むにつれて、実際に起こっている以上は、何かしらのデータが出てくると思われる。

まだ結果が出ていないことと、それをスピリチュアリズムの論理につなげることは全く違うことである。
 
頭の中で声が聞こえて来ることでさえ、特別不思議なことではない。
 

私個人、スピリチュアリズムに否定的な立場であることは事実だが、日本国憲法第20条で信教の自由が認められている以上、最後は個人の選択に委ねられるべきであると考えている。

そしてスピリチュアリズムの見た目だけに羨望の眼を向け、入り込んでいくことは論外だが、例えば医師のような患者の死と常に隣り合せに存在し、精神を極限まですり減らし、頑張ることに疲れ、何の活力も湧いてこない人が、スピリチュアリズムを求めてしまうケースは分けて考えるべきである。

こちらの問題は根が深い。
 
事実神や宗教と言った、超常的な論理を受け入れることで、人のストレス値が下がるというデータもある。
 
しかしそれを「穏やか」とは言わないと考えている。

スピノザの「エチカ」にて、『苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象した途端、苦悩であることをやめる』とあるが、苦悩の明晰判明な表象がどちらに向くかは極めて重要な分岐である。

自分ではもう何も判断が出来ず、そういったものの答えを、神や高次元世界との接続などという疑似科学に救いを求めてしまうこと全てを私は否定できない。
 
しかし同時に、それが正しい選択とも思えない。

自らの自由意思を放棄しかけた彼らが、再び自由意思を抱きかかえてもらうには、どうようにすることが最も良い選択となり得るのだろうか。
 
それは今後の検討課題である。


ヴィクトール・E・フランクル著 夜と霧 p.131
(引用開始)
 
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみの責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。

人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙でたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

だれもそのひとから苦しみを取り除くことはできない。

この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
 
(引用終了)

 
人類の歩みとは、ひとの尊厳と自由意思を獲得してきた歴史である。

世界史における革命には必ず流血を挟み、それらを勝ち取ってきた。
民主主義もそのひとつである。 

自由意思を他に絡められることなく、最後まで大事に抱きかかえる、そんな泥臭いメンタリティーが必要であると考える。 

自分の最後の領域を、容易く他所へ受け渡してはならない。


ぜひ本書を手に取り、自らを拠りどころとしたあり方を模索してほしい。